日々の泡粒

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2005年6月20日(月) トルストイ

『どんな不幸の直中にあっても、総体としての人生は祝福しなさい』

2005年6月21日(火) ストイシズム

飢え、渇け。
そこに生じるものから目を背けるな。
すべてを飲み干せ、最後の一滴まで。

2005年6月22日(水) マタイ 22:14

『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』

2005年6月23日(木) クーン

『つまり、古いパラダイムで解けないものはごくわずかであることは知っていながら、新しいパラダイムが直面する多くの問題を解く上で、いずれは成功するであろうという信念を持たねばならない。その種の決断は、ただ信念によるのである。』

2005年6月24日(金) ウィトゲンシュタイン 5・6

『私の言語の限界は、私の世界の限界である。』

2005年6月25日(土) レビ 16:22

『雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。』

2005年6月26日(日) about these words

手許に本が残ってて、どこに書いてあるか覚えているものをいくつか、引っぱり出してみた。これら一連の言葉は、主に大学の頃に読み漁った本の中にあって、自分の今の価値観、世界観を決定づけたもの。とりわけ、ウィトゲンシュタインのインパクトが大きかったように思う。

当時をいろいろ思い出すに、最初は哲学専攻に進もうと思ってんだ、そうだそうだ。学部1年のころ、とにかく食わず嫌いしないでいろんな教養講座を聴講しているうちに、言語学に興味がシフトしていき、その関係でソシュールとかデリダとかウィトゲンシュタインとかを読むようになって。それが言語の哲学的な考察だとすれば、たとえばピンカーみたいに認知科学的なアプローチもあることを知って、それが結局心理学に進んだ決定的な要因。心理学ったら、基本は仮説検証型の実験科学だから、研究室のほとんどは頭が理系。その中で言語学とか言語哲学とか認知科学とか、一通り知ってる、というのはある意味、特殊だったのじゃないかと、やっぱり思う。ま、心理関係の蔵書は2個下の後輩君が似たようなテーマで卒論やる、ってんでほとんどあげちゃったけど。

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こうした言葉はたしかに、自分の中に深く食い込んではいる。でも、やっぱりそれはあくまでも“言葉”でしかない。ひとつの言葉がどんなにすごかろうと、それが個人の血なり肉なりにならなければ、ただの文字の羅列、音の羅列、でしかない。「理解する」というのは、単に言葉そのものを知る、というだけでは成されるものではなくて、そこに何を読み取るか、そこから何を得るか、ということだ。知識を得ることとはそれはそれで良いことだけれど、どんなに知識があったところで、それを「適用」できなければ意味がない。逆に、少ない知識でもそれを最大限に適用できれば、それは力となる。“知は力なり”の言葉の意図は、たぶんそういうところにあるんじゃないのかな、と最近になってようやく思えるようになってきた。

2005年6月27日(月) 濃密な1日

いろんな人たちに、久しぶりに会った。1年ぶりの人もいれば、4、5ヶ月ぶりの人もいる。しょっちゅう会ってちょこちょこ話している人もいるけど、徹夜で話し込んだのなんて学生の頃以来。だから、ある意味ではその人たちとは“初めまして”の部分もある。正直なところ、「自分で自分を追い詰めている」と思われていたのには若干ショックではあった。もしかしたら周囲に心配かけてたのかな、とか、いろいろ気を遣わせてしまっていたのかな、とか。改めて声に出して話してみて、自分の中では「解決済み」と思っていたことでも、やっぱりまだもやもやして残っている部分があることに気付いて、できれば知らずに済めばそれで良いと思っていたけれど、でもずっと知りたいと思っていたことだから、知ってしまったことには後悔しない。いつになるか分からないけれど、きちんとした形でケリをつけたい、と改めて思った。

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うちが「ものすごく大きなもの」と呼んでいるもの、その現れ方は人それぞれだけれど、それって決してある特定の個人だけのものじゃない。どんなに「無宗教だ」とか「信仰をもっていない」と言っても、そういったものの存在は多くの人が感じているものだ。だから、個人にとってのその存在はたしかに特別だけれど、それを感じた個人そのものが特別なのではない。そういうものの存在をたしかに感じている人ほど、「世界の中心は自分ではない」ということをしっかりと認識しているからだ。逆に言えば、どんなに信仰をもっていても、その存在をたしかに感じることができないならば、その信仰は偽りなのだと考える。言葉や作法を知っていることそのものは、信仰の本質ではない。それは理解を豊かにする手段に過ぎず、周囲の肉付けでしかない。要は、核となるものがしっかりと自分の中に根付いているかどうか、ということ。

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正直な話、鈍感な人間だから、小さなサインでは気付きようもない。そこまで周囲を見渡せるほどの視野はもっていないし、いろんなものを見落としている可能性だってある。もしかしたら目の前で手旗信号でもやってもらわないと、何にも気付かないかもしれない。ただし、自分の求めているものが必ずしもその下に埋まっているとは限らない。世界がすれ違ってしまうのが、一番哀しいことだと思う。どんなに交わろうと思っても、決して交差しない世界、というのだってたしかに存在するものだから。

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久しぶりに会って、「ずいぶん痩せたんじゃない?」と言われた。毎朝チャリンコこいで山登りして、というのをかれこれ1年と4ヶ月ばかり繰り返しているから、余分なものは普通に落ちていくはず。それとは別個に、「自分を追い詰めているんじゃないか」と言われたことも頭にあって、そういった諸々を組み合わせて考えると、必ずしも適度な運動だけが要因ではないと思う。腰の周囲の肉が削ぎ落ちていわゆる“くびれ”ができているように見えるのは、単にタイトな服を着るようになっただけのことなのかもしれないけれど。

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過去を振り返ると、本当にいろんなところを通ってきたんだな、と実感する。大阪から仙台に戻ってきたこと自体は経済的な事情だったり自分の意志だったり、そういうものだと思っていたけれど、でもそれだって、たぶん何かに後押しされて出来たことなんだろうと思う。あのまま大阪に残ることだってできたんだろうけれど、ひとつの可能性として仮に大阪に残ったとして、今の環境を作り上げることができたかどうか、ということについては疑問が残る。だから、やっぱり今ここにこうしていろんな人たちに囲まれていることは、自分の意志とはかけ離れた“何か”の力が働いていたんじゃないか、と考えてしまう。おかしな言い方になってしまうけれど、あの“奇妙なつながり”だって、できるべくしてできたものなんじゃないだろうか、とある人が言っていた。その早い遅いの違いはあるんだろうけれど、そういう巡り合わせに遭遇できたことに、感謝。

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人にはそれぞれの幸福がある。それがこちらから見て決して「幸福」といえるものではないものであっても。だから、当人が「幸福だ」と感じていることに対して、横から水を差す必要性は感じない。とはいえ、できることならば、祝福された幸福を多くの人が受け取ってほしい。そう願うのは傲慢なこと?

2005年6月28日(火) 言葉について

言葉は大事なものだ。何かを伝えようとするとき、最大限の努力をはらって、なんとか「言葉」という形に掬いあげようとする。でも、その努力は意外と目に見えない。どんなにがんばってがんばってがんばって最良だと思える言葉を選びとったとしても、結局のところ、伝わるのはその言葉だけだ。そして、その言葉の「意味」をはみだしたものは、当人が意図しないところのものであることの方がずっと多い。だから、すれ違いが生じ、取り返しようのない溝が穿たれ、どうしようもない霧の中に閉じ込められてしまう。

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言葉の意味をはみだした「なにものか」は、すでに言葉ではない。その「なにものか」、思い通りにあやつることはできないにしても、ある方向に導くことはできないだろうか?できるのだ、思いのほか、単純に。

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失礼な言い方になってしまうかもしれないけれど、世間一般に言う「美人」の類に入らない人でも、表情が豊かであれば実に魅力的に写る。逆に、どんなに「美人」でも、表情が乏しいと空恐ろしい。笑うときはきちんと笑い、泣くときはきちんと泣き、怒るときはきちんと怒り、怖いときはきちんと怖がる。表情は言葉をはみだした「なにものか」を導き、言葉をより豊かにする。表情が見えないと言葉が一人歩きを始めてしまい、どこかとんでもないところに行ってしまう。自分が「メールや電話ではきちんとした話ができない」というのはそういう意味。親しい友人とでさえ、電話で話をするときはとても緊張してしまう。相手の表情が見えないから、こちらの言葉がきちんと伝わっているか、相手の言葉をきちんと受け取っているか、さっぱり分からないのだ。

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それをふまえた上で、やっぱり言葉は大事なものだと思う。言葉の前で自信を失い、ときには言葉そのものを失ってしまうことさえあるけれど、伝え合い、分かり合うことの喜びと幸せはなにものにも替えられない。だからこそ、こうして言葉を綴っていけるんだろう、きっと。

2005年6月29日(水) 時間と日常

1年2年というタイムスパンは長いように思える。12ヶ月、365日、8760時間、525600分、31536000秒。時間は誰にとっても平等で、誰にも同じようにやってきて、同じように過ぎ去っていく。だから、1年は誰にとっても1年であることには変わりがない。けれども、その同じ時間の中でどれだけのことを成すことができるか、によって時間は伸縮する。

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ありきたりだけれども、楽しい時間は早く過ぎ、退屈な時間はゆっくり過ぎる。でも、後から振り返ると、早く過ぎた楽しい時間は「長かった」と感じるし、逆に退屈な時間は「短かった」と感じる。それはある時間の中での密度の問題。

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新しいことを始めると、それは非日常であるから、とてもじゃないけど「退屈」なんていってられない。挑戦と苦悩とその先の突き抜けた歓喜。けれども、非日常も、続いてしまえば日常になる。日常から新しいものは生まれない。決して悪いものではないけれど、日常は保守的で退屈だ。だから、そこに非日常のエッセンスを数滴、たらしてみたいと思ってしまう。それって単に意地悪なだけなのかもしれないけれど。

2005年6月30日(木) 野良のプライド

野良には野良なりのプライドがあるのです。媚びてまで餌をもらおうとは思いません。餌付けされるのとなつくのとは違います。芸は自分で磨くもの、人に仕込まれるものではありません。

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Akiary v.0.51