日々の泡粒
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2005年8月1日(月) アスベストと新興宗教
中学、高校の頃、化学の授業といえばアルコールランプでビーカーに入れた薬品を熱するのが当然だった。ビーカーとアルコールランプの間には、ガラスを直接火と接触させないよう、燃えにくい石綿をはさむのが当然だった。もう10年以上も前の話。
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石綿=アスベスト。アスベストは肺に入ると呼吸器障害等の甚大な健康被害をもたらすという。30年近く前、厚生省はその報告書を提出し、アスベストの使用に関する注意を勧告したけれども、建材として使われていた吹き付けアスベストの撤去は徹底されず、その問題が今の国会で議論を呼んでいる、らしい。
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それを受けて、各自治体では学校等からアスベストの撤去を行っている。当然、化学実験に使われていた石綿も例外ではない。あの、金網の中心に丸くつけられた石綿も、もう見ることはないんだろう。化学は苦手で結局最後まできちんと理解できていなかったけれど、ものが目の前で変化していく様子を実際に眺められる化学実験は、そんなに嫌いではなかった。
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こんな風にして、過去のものは消滅し、記憶の中にその姿をとどめるのみとなる。
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たしかに、健康に害をおよぼすようなものを教育機関が当たり前に使用しているのは問題だ。でも、それに対するあの極端にヒステリックな反応は、一体どういうことなんだろう?その背後に、健康に対する異常なまでの執着心(更にいえば崇拝心)と病気に対する異常なまでの拒絶心(恐怖心)が感じられる。“健康ブーム”と言うけれど、冷静に見たらマスコミのあおり方は新興宗教のそれと大差ない。「これを食べないとあなたは病気になる。だから、この食材を(スポンサーの意向に従って)みんなで買い漁って毎日食べなさい」。それで、今は寒天が各所で売り切れている、とのこと。でも、特定の食品を偏って摂取するのは、余計に健康に悪い。バランスのとれた食生活と適度な運動をしてさえいれば、そんなに簡単に肥満になることもないし、病気になることもない。それをなぜ、特定の食品に頼ろうとするのか、その点が理解できない。
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かつて、病や死は生活の中にあり、生きていく上で共にすべきものだった。それが現在、病や死は病院の中に隔離され、「あってはならないもの」とされているように思う。だから、病や死と「共に生きる」術がどんどん失われていっている。なぜ病をそんなに恐れるのか?なぜ死をそんなに恐れるのか?それは極めて自然な力であり、人がそうそう簡単に抵抗できるほど、小さな力ではない。
2005年8月2日(火) 伽藍と市場
某M氏の言葉。
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組織の構成の仕方には大雑把に分けて2種類ある。「伽藍型」と「市場型」。
伽藍型の組織は、平たく言えばピラミッド構造の組織のこと。トップにリーダーがいて、その下に幹部がいてさらに下っ端の兵隊がいて・・・というもの。高度成長期の日本企業はまさに「伽藍型」の組織だった。この組織の強みは、あるひとつの目標を一挙に達成しようとするときにもっとも顕著である。トップが命令をくだせば組織はその方向に動きだし、その圧倒的な「数」によって目標を達成してしまう。ただし、この組織の問題点は、リーダーが誤った判断をくだしたとき、組織そのものが総崩れになってしまう、という点。多くの経営者が誤った判断をくだした結果、バブル経済は崩壊した。
「市場型」の組織は、どこからともなく人が集まり、寄り合いによってゆるやかな方向性が決められ、個々が個々の裁量によって問題を解決していく。「伽藍型」がトップダウンな組織構成であるのに対し、「市場型」はボトムアップな組織構成である。この組織は、それぞれのつながりがゆるやかであるため、分裂しやすい。また、特定の目標を一挙に達成するのには向いていない。しかし、様々に変化する社会に対して柔軟な対応が可能だ。欧米の組織の多くは「市場型」にシフトしつつあるというし、日本の一部の企業でも、そのような形態の組織が徐々にではあるができつつある、という。
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これを見て、もしかしたら多くの人は「市場型の組織の方が良い」と思うかもしれない。それは、日本人の「働く」ということに対する意識の変化を反映したものだと考える。バブル経済が崩壊して以降、多くのサラリーマンは会社に拘束されることを嫌い、より多くの余暇を求めるようになった。自由裁量制度と能力給制度はそのような「働く側の意識」の変化を反映してのものである。しかし、自由裁量と能力給はすべての人に良い結果をもたらしたわけではない。自由裁量ということは、手を抜いても良い、ということ。能力給は上司の正当な評価があって初めて成立するもの。そこに生じた溝が、ぎしぎしと音をたてているように感じる。
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働く人すべてが、自分の考えで動き、問題を解決できるとは限らない。上から指示され、期限をつけられ、拘束されてようやく動き始める、という人だっている。そういう人には、「市場型」の組織は向いていない。指揮官だけでは戦争ができないのと同じこと。
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自分にとって、「伽藍型」の組織は考えなくて済む分、楽な反面、窮屈で仕方がない。やはり、「市場型」の組織が理想だ。
2005年8月3日(水) 勝負師の魂
0を1にするのは困難だが、1を10にするのは思っているほど困難ではない。
例えば。
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ピストルを1丁、渡されたとする。ひとりには弾丸を1発、もうひとりには弾丸は渡さない。勝敗は歴然である。弾丸を渡されたひとりは、相手がひとりだけではない、と考えるかもしれない。そこで弾丸を増やそうと思い付く。もとはあるのだから、それを模倣して作れば良い。もしもとの弾丸が不発に終わる可能性を見い出したなら、その点を改良して作れば良い。こうして、手持ちの弾丸は増えていく。
一方、弾丸を渡されなかった方はどうか。弾丸を作ろうにも、ベースとすべきもとがない。だから、弾丸を0から作らなければならない。
このようにして、ふたりの間の差は見る間に広がってゆく。
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物騒な例えで失礼。
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まるで勝ち目のない勝負なら、逃げ出した方が得策かもしれない。けれども、ほんのわずかでも勝てる兆しが見えるのなら、その可能性に賭けても良い。とはいえ、ただ闇雲に勝負を挑んでも、確立論的に、負けるのは目に見えている。勝てる確立が10%だとしたら、それを20%、30%に引き上げることをまず考える。勝てる兆しが見える、ということは、少なくとも弾丸は1発渡されている、ということ。それをもとに手玉を増やしていけば、勝ちの遠かった勝負だってなんとか勝てるかもしれない。
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これが、勝負師の魂。
2005年8月4日(木) 雨後
帰りのバスに乗ろうと思ったら、突然の土砂降り。あんなに降るなんて予測もできないし、傘ももっていなかったから、バス停まで走ったけれど、やっぱりずぶぬれ。
これがひとつの区切りとなって、短い夏がやてくるんだろうな、なんてぼんやり考えた。
2005年8月6日(土) 生鮮食品
生鮮食品の鮮度を保ちつつ保存するのは案外大変。野菜類は冷蔵庫にぽん、でいけるケースが多いけど、肉魚はきちんと下処理してあげないと、すぐにわるくなってしまう。得に魚介類。どういう料理に使うかにもよるけれど、わたをぬく、塩や酢でしめる、は基本なんだろうな(わたはわたで別に使えることもあるけど)。さばいて個別に冷凍、でも良い気がするけど。鮮度を保つにはやっぱり、いろいろと気を遣ってあげないといけないのです、ええ。
2005年8月7日(日) 写真あそび
素材集めのためでもあるんだけれど、なんか急に「写真のための写真」を撮りたくなった。コラージュに使う写真て、色とか形で撮るモノを選んでいるので、構図はあとでいじれば良いや〜、な感覚なんだけれども、写真そのものを出そうと思ったら、モノそのものがもってる情感というか色気というか、そういう“空気”もまるごと入れ込みたい。だもんで、構図とか光の入り具合とかフォーカスとか、テクニカルな所にまず気を遣う。結局は肉体労働なんだけれども。
なんか写真始めた頃と被写体とか構図とか、あんまり変わってないな〜、と思いつつ。んまぁ、写真撮ること自体は嫌いじゃないしねぇ。いくつか良い感じのカットがあったので、暑中見舞い用にちょべっといじってみようかな。住所が判明してる方には問答無用で送りつけるので覚悟するように<違
欲しい、という方はどうぞご遠慮なくお問い合わせくださいませ。クリスマスカードみたいに大々的にはやらないつもりだけどさ。
※コラージュではなく、ほんとに写真なので、その点にだけはご留意ください。
2005年8月8日(月) あ〜あ〜
風邪ひいたか?鼻水大量流出。頭痛はしないけど目眩が少し。それと、煙草があんまりうまくない。夏風邪ひくのは○○だしね〜。そういうことにしとくか。そんなわけで暑中見舞い発送しました。よろしく。
2005年8月9日(火) ふと思う
しょうもないことなんだろうけれど。
こうして立っていられるのも、重力があるおかげなんだよね。雨が降るのも空に雲がただよってるのも、やっぱり重力があるおかげ。そういうのをよくよく考えてみたら、なんかすごいことだよなぁ、と。普段当たり前に“地面の上に立って”いるけれど、重力がなかったら立ってすらいられないし。世界はなんだかよく分からないけどよくできてる、と変なところで驚いた。
・・・ごめん、オチはない。
2005年8月10日(水) やってできないことはない
昼飯時に職場の人と話してたんですが。「Cってここ来てから覚えたんですよね?」って。あ〜、たしかに、プログラム経験ったらHTMLとかFlashのアクションスクリプトくらいしかなくて。でも、なんというか、そのためにせっせと勉強した、ってことはなくって、なんとなくやってみたらできた、な感じ。すごい適当。それでもそれなりのものは作れるから、「分からないからやらない」んじゃなくて、「分からないけどとりあえずやってみる」のが吉かと。やってみる前から諦めるのもなんか嫌だし。で、よほどのことじゃない限り、やってみたらできることって案外多かったりすると思うのです。
“成せばなる 成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり” 今日の名文 by 日本語であそぼ
2005年8月11日(木) モノクロとカラー
「モノクロにしてしまうとどんな写真にも味がでてしまう」とは某氏の言葉。たしかに、その言葉にはそれなりに納得できる。下手くそでありきたりなスナップ写真でも、モノクロにしてしまうとなんとなくそれらしい雰囲気が出てしまう。それを「ずるい」と感じてしまう気持ちも分からないではない。
だからといって、それがモノクロ写真そのものを否定することにはならない、と思う。モノクロでしか出せない風合い、カラーでしか出せない風合い、というものが確実にあるからだ。モノクロにすればたしかにそれなりの味は出る。でも、モノクロにすることで失われる味もまた同様にある。だから、モノクロにする確たる理由があるのなら、モノクロにすることを厭うべきではない、と思う。逆に、カラーでしか出せないものを敢えてモノクロにするのは意味がない。そこを分かってやっているのであれば、何の問題もないはず。
ただ「ずるい」と否定するのではなく、そこにある“意図”(モノクロにすればとりあえず味がでるから、という部分を除いて)をまず汲み取ることが先なのではないのかな?その上で、モノクロにする理由がないと判断するのなら批判すれば良いし、そうでなければ自分の固定観念を疑ってかかるべきだと思う。
すべてのものをひとつの価値観で判断するのは、多くを見失う危険が伴う。先入観は物事を歪め、本来の在り方を損なわせる。自分の核となる価値観は持つべきだと思うけれど、それをメタレベルから常に冷たく批判する目を持つことも、無意味なことではない。
2005年8月12日(金) 実験
いろいろ試してみる。こんな風にしたらこうなるんじゃねぇ?な感覚で。
もちろんそうならないことの方がずっと多いけれど、じゃあなんでそうなったかを考えると、ちょっと進歩した気分になれる。
そんなこんな積み重ねの毎日。
2005年8月13日(土) 本
ここ最近、前よりも本を読まなくなった。しばらく前に買ったU・エーコの「前日島」を読み終わったから何か良さそうなのないかな、と探しにいったんだけれども、どうもいまいちピンとくるのがない。以前だったらとりあえず何冊か買っちゃえ、みたいな感じで文庫5冊とか平気で買ってたんだけれども。変わってきたんかな?インプットよりもアウトプットの方に向かってきてるような感じ。
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それはそれとして。
こういう好みって誰しもが持ってるわけじゃないとは思うんだけれど。
本そのもの、というか、モノとしての本としては、新潮文庫が一番好き。角川文庫とか講談社文庫に比べて紙が若干薄くて、みちっと詰まってる感じがする。横からみると、断裁がきっちりそろってるわけじゃなくて、そこはマイナスポイントなんだけれど、手に持った時の重みとか、しっかりとした感触とか、そういうのが、他の文庫に比べてしっくりくる。講談社文庫だと、紙が分厚い感じがして、同じ頁数でもかさばる感じがする。角川文庫はカバーがぎとぎとしててなんか嫌。
そういや、講談社現代新書って装丁が変わってたのね。知らんかった。前の薄いベージュにイメージ画がついてて裏に著者の写真があるやつ、あれだと、内容のイメージも湧いてきて手にとりやすかったんだけどな。シンプルなのは嫌いじゃないけど、内容がイメージしにくい、という点では装丁としてはマイナス。
2005年8月14日(日) 憎しみには花束を
憎しみは憎しみを生み、連鎖反応を起こして膨張する。手のつけられないほど大きくなったとき、元の理由は失われてしまっている。それでも、憎しみは消えず、なお根深く残ったままだ。
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自分に銃を向ける相手に、花束を贈ることができるだろうか?それによって相手の憎しみをより大きくしてしまう可能性さえあるというのに?それでも、憎しみの連鎖を断つためには、いずれ誰かが花束をもって銃口の前に立たなければならない。
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自分にそこまでできるかどうか分からない。
でも、もしあなたが僕に憎しみを向けるのなら、せめて言葉の花束をもって、あなたの前に立とう。
2005年8月15日(月) ウニ
小さい頃、ウニが食べられなかった。ウニといっても、瓶詰めのアレ。妙な苦味というかえぐみというか、そういうのがどうしてもダメで。両親はうまいうまいとご飯にのっけて食べていたんだけれども、その感覚がどうしても理解できなかった。
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ウニが食べられるようになったのは、小学校3年生のとき。母方の実家(漁業)でウニの水揚げがあって、漁船の上でまだ海水に濡れているウニをそのまま割って醤油をたらして食べさせてもらった。うまい。あの瓶詰めのウニは一体なんなんだ、というくらいうまい。確かに瓶詰めのアレみたいな独特の風味はあるんだけれども、それよりも甘味の方が強くて、口の中で溶けていくような濃厚さがたまらない。小学生ながら、小生意気にも魚介類はとれたて、できれば生きているうちにそのまま食うのが一番うまい、と実感した。普通の感覚だったら、ものすごく贅沢なことなんだけれども。
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今でも瓶詰めのウニは苦手。食べられないわけじゃないんだけれども、自分から進んで食べようとは思わない。ウニといったらやっぱり、殻つきのものをそのまま食すのが一番だ。瓶詰めのアレはウニなんかじゃない、と声を大にして主張したい。
2005年8月16日(火) 戦後60年
60年前の昨日、日本は戦争に負けた。「終わった」という表現を使っているけれども、それは単に日本という国名が残っただけで、実質は米国に占領されたのと同じこと。今でもアメリカ軍は日本に駐留しているし、憲法だっていわばアメリカから与えられたようなものだ。マッカーサーが日本に同情的・好意的な態度を示しただけのことで、司令官が違っていたら、日本という国名すら残っていなかったのかもしれない。それが良かったことなのか、悪かったことなのか、それは分からない。歴史に“もし”はタブーだ。
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日本は世界で唯一の原爆の被害国である一方で、中国、朝鮮半島への侵略戦争の加害者でもある。被害者であることだけを声高に叫んでも、説得力はない。加害者である、という事実も決して忘れてはならない、と思う。どんなに「戦後生まれがこれからの政治の主役だ」といっても、歴史的事実はぬぐい去れるものではない。それは、“国”としての責任でもある。「靖国神社を参拝したのは公人としてか私人としてか?」などと未だに報道するマスコミもどうかしてる。そんなのは問題にならないほど靖国神社は根が深いと、マスコミの方々には分からないらしい。私人としてなら参拝してもなんの問題もないと考える議員先生も大いなる勘違いをなさっていると言わざるをえない。国会議員である以上、あなたはもはや、一時たりとも私人ではあり得ないんですよ?
※靖国神社の正門を見たことがありますか?もし見たことがないのなら、一度行ってみてください。何であんなに問題になるのか、その一端が見えるはずです。
※※ただ同時に、あそこは基本的に戦没者の魂を祀った場である、ということも忘れてはいけません。必ずしもA級戦犯“だけ”が祀られているわけではないのです。だから、話がややこしいのです。靖国には靖国の歴史がある、ということは、どうもあまり議論の対象にはなっていないようです。
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“お国のため”という感覚を理解できる日本人が今、どれほどいるだろう?国のために死ねるほど、この国は誇れるものだろうか?オリンピック、ワールドカップ、世界水泳、世界陸上、日本人選手が上位に入れば嬉しい、感動して泣いた、と言う。でも、国のために死ぬのはまっぴらごめんだ。“国”というのは今や、登録商標と同じ程度の重さしかないのかもしれない。
日本TM
もしかしたら天皇だって、「時々テレビに出てきてにこにこしながら手を振っている人」という程度の感覚なのかもしれない。あるいは芸能人の一種と思っている人だっているかもしれない。“象徴天皇”の意義がどれだけ理解されているか、怪しいものだ。自分自身、時折自分が日本人であるということに羞恥心すら覚えることも、ないではない。
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戦争は愚かな行為だ。何が何でもやってはいけない。誰もが口をそろえて言うことだろう。模範的ナ回答デス。80点アゲマス。では、仮に今、日本がどこかの国と戦争状態に入り、太平洋戦争の頃のように国民が戦争に総動員されたとしたとき、模範的回答の皆様は本当に、現実的に、具体的に、政府に異義を唱え、兵役を拒否し、投獄され、あるいは激しい罰をかせられても、それでもなお、模範的回答を繰り返すことができるだろうか?戦争とはある種の熱病のようなものだ。ひとり感染すれば、それがたちまち広がってゆく。政府に統制された情報の中で、憎いともなんとも思っていない人たちを、憎いと思い始めてしまう。これまで“悪”だった戦争が、ある日突然、“善”に摺り替えられてしまう。銃をとれ、敵を殺せ、と刷り込まれる。それでもなお、戦争は何が何でもやってはいけない、とはっきり言葉に出して言うことができるだろうか?
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戦争が終結し、焼け野原の中から驚異的な復興を遂げ、高度成長期に経済立国という立場を築きあげ、バブル経済が崩壊して慢性的な不景気に沈滞している国、日本。極端な高齢化・少子化で年金制度が崩壊し、人口減少が予測される国、日本。いつまで経っても内輪もめから脱却できない政治家達が舵をとる国、日本。数え上げれば上げるほど、鬱々とした気分になってくる。
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話は大いにそれてしまうけれども、最後にひとつだけ、解決したい疑問がある。
クリスチャンの皆様に問いかけたいのです。アメリカ軍が治安維持と称して各地で行っている戦争行為は聖書の教えにもとっていないのでしょうか?「右の頬をぶたれたら左の頬も差し出しなさい」とは書いてあるけれど、「警備車両が爆破されても罪のない民間人には発砲(結果死亡)してはならない」とは書いてないから、その行為はgoodなんでしょうか?後で教会で許しを請えば何でもgoodなんでしょうか?それとも、アメリカはキリスト教国ではなかったんでしょうか?あるいは、対岸の火は関係ないのでしょうか?
どうしても理解できないのです。皆様の真摯なご回答を心待ちにしております。
2005年8月17日(水) 科学と哲学の交点
科学技術はもはや、それ単体では成立しなくなってきているのではないか、と考える。自然科学はミクロスケールにおいてもマクロスケールにおいても、ニュートン力学とコペルニクス天文学を経て、相対論と量子論の2大革命で多大な発展をみせた。そして同時に、相対論も量子論も、やがて哲学的な問題に遭遇する。
「世界はなぜ、このように“在る”のか?」
それを神による創造と言うこともできるだろうし、果てしなく繰り返された試行の果ての偶然と言うこともできるだろう。科学者はもはや、哲学を避けて通ることができない。その一方で、哲学者も科学を無視することはできない。なぜなら、数千年かけて考え抜かれてきた問題が、現代科学の問題に含まれているからだ。科学と哲学は相反するものでは決してない。むしろ、相互補完する関係にあるもの。これまで完全に独立と思い込まれてきた学問が、現代において、極めて自然な形で歩み寄りを始めているようにみえる。
2005年8月18日(木) 仏像にエキサイトする
一昨日、ちょうど宮城県沖を震源としたマグニチュード7.2程度の地震が発生したその時間、仙台市博物館の館内におりました。興福寺国宝展を見にいっていたのです。隆々たる筋肉!浮き上がる血管!すげぇよ仏像!すげぇよ運慶!すげぇよ鎌倉幕府!表面上は冷静を装っておりましたが、内心かなりエキサイトしてましたとも、ええ。12世紀の日本の木彫技術はすごいです。日本にあんな写実表現があるなんてちょっと思っていませんでした。反省。金剛力士像は2体セットで見たかったとか、12神将全部見たかったとか、ないではないですが、良いもの見ました。一見の価値ありです。是非<回し者じゃないよ?
2005年8月19日(金) 正規分布
例えば、学力テストをしたとします。100点満点で、結果、平均点が50点だったと仮定します。このとき、X軸に得点、Y軸にその得点をとった人数をプロットしてグラフ化すると、受験者数が多いほど、中央の平均点付近のピークが高くなり、高得点、もしくは低得点にシフトするにしたがい、そのピークはなだらかに低くなっていきます。つまり、標準的な事象の発生確立はもっとも高く、ある意味で以上な事象の発生確立は低くなる、という分布を示したことになります。これが、正規分布、という考え方。「正規分布」でイメージ検索してあげればその曲線はたぶん、出てくると思います。
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学部3年のころ、「会社における組織心理学」をテーマにした集中講議を聴講しました。かなり生々しい話もあったのですが、さすがにそれはまずかろうと思うので、そっちはやめときます。あくまでも正規分布の話。
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仕事の出来る人、というのはどんな会社にもいるし、逆に仕事の出来ない人、というのもどんな会社にもいます。そのおおまかな割合は、ちょうど正規分布のようになるそうです。組織の規模にもよりますが、概算で仕事が出来る人1割、出来ない人1割、残りの8割は平均的に可もなく不可もなく、という人。たぶん、規模が大きいほど、その分布は正規分布の曲線に近付くでしょう。規模の小さいベンチャー企業なんかだと、もしかしたら仕事が出来ない人はほとんどいないかもしれませんが。その辺りのケーススタディはとりあえず置いといて、あくまでも統計的な話に終始してみます。
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問い:出来る人出来ない人の分布が正規分布に従うとしたら、さてどんなことが起きるでしょう?
答え:リストラと称して仕事の出来ない人を退職させても、結局は正規分布曲線がスライドするだけで、出来ない人そのものが相対的に減るわけではない。
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話としてはものすごく単純なのです。どんなに出来ない人を辞めさせても、裾の方にいる限り無く不可に近い可の人達が1割の出来ない人に入ってしまうだけで、出来不出来の分布そのものはそんなに変わるものではない、ということ。だから、出来ない人を辞めさせるよりは、正規分布曲線のピークをいかに可の方にスライドさせられるか、が組織の底上げをする上で重要なんですよ、というお話。
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どんなに仕事ができないからって、それにいちいちめくじら立てていたんではとてもじゃないけどもちません。出来ない人達には出来ない人達なりの存在意義があるんじゃないのかな。そりゃ、いつまでたっても同じ失敗ばかり繰り返してる人を見てると正直、ものすごい腹たつけどさ。
2005年8月20日(土) 快方
夏風邪、いまだに引っ張ってるのか、といわれそうですが、だんだん良くなってきています。痰がひどかった時期にくらべればだいぶまし。咳もおさまってきたし。あ〜、良かった。
2005年8月21日(日) それぞれの正義
人にはそれぞれの正義がある。何が正しくて何が間違っているのかは、個人個人によって異なる。あちらが自分の正義を固持するならば、それはこちらにとっての悪となろうし、逆もまた真である。それぞれの正義が戦争を引き起こし、異なる正義が主張される中、戦争そのものは“悪”と糾弾される。論理的には奇妙な逆説のように思えてならない。とはいえ、戦争そのものに正義を認めるわけでは、決してない。
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異なる正義は異なる土台をもっている。それが倫理観であったり政治信条であったり宗教信仰であったり民族意識であったり愛する個人であったり憎む個人であったり、その違いは様々だ。土台が異なる以上、それらは決して交わることがない。どんなに対話を重ねても、国家利益と宗教の教義は平行線を辿ってしまう。哀しいけれど、戦争の火種は消えることがない。それが臨界点に達したとき、人々はそれぞれの正義と武器を携え、互いに殺しあう。傍観者はそれを“悪”だと糾弾し、傍観者としての正義を語りはじめる。
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ひとつの争い事もない、平和で穏やかな理想国家などというものは、本質的にはありえない。誰もが同じ正義を持ち、同じ主張をし、互いにすべて受け入れるとしたら、ナチスドイツの全体主義だって理想国家のひとつの形だ。それがどれほど不気味なものであるか、そのことくらいは、分かってもらえると思う。
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正義は相対的なもので個々別々のものだ。思想も信仰も慣習も生活も、皆それぞれ違う。それが当たり前の状態であって、誰もが同じ考えを持ち、同じ感じ方をする方が異常だと考える。
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違う、ということを認めないのは、違う、ということを分かろうとしないからだ。同じ意見を言い、ただ同調するだけが“和”ではない。そんな“和”はすぐにきしみ始め、音をたてて崩れてしまう。
2005年8月22日(月) size
A4...210*297mm
A3...297*420mm
A2...420*594mm
A1...594*820mm
○A0...820*1188mm
2005年8月23日(火) size
B5...257*182mm
B4...364*257mm
B3...514*364mm
B2...728*514mm
?B1...1028*728mm
B0...1436*1028mm
2005年8月24日(水) 魂の宿り場
魂と呼ぶべきものは何処にあるのだろうか。脳、と答える人が大多数だろうと思う。確かに脳は人の記憶、情動、本能、理性を司り、精神活動の大部分を担っている。精神活動=魂。この等号が本当に成立するのか、本当はきちんと考えなければいけない。人を形作るものはなにか?魂を作り上げているものはなにか?答えはそれほど、単純ではないと思う。
2005年8月25日(木) カメラ
思えば、写真を始めたのは今からもう6年前だ。初めて買ったのは、lomo。もともとロシアの軍用カメラを改造していわゆるトイカメラに仕立てたもの。あまり一般的なレンズを使っていないっぽくて、リバーサルフィルムで撮るとなんとも微妙な色合いに仕上がる。AGFAのフィルムを使ったらどうなるんだ?と思ったこともあるが、やったことはない。その次に買ったのが、社会人2年目の夏のボーナスで買ったSONYのデジカメ。これはいまでも現役ばりばりで使ってる。大砲みたいなレンズが手に馴染んで、持ち運びもしやすい。絞りもフォーカスもシャッタースピードもある程度までならマニュアルでいじれるので、フルオートが嫌いな方にはオススメだけれど、いかんせん、製造中止。その次が、大阪の会社を辞める少し前に買ったNikonのフルマニュアル機、FM-10。オート一切なし。電池が切れてもメカニカルシャッターで動く、マニア向けのカメラ。非常に頑丈で、一度道路に落としたことがあるんだけれど、ちょっと傷が入っただけでまるっきり問題無し。FM-10はデジカメほどではないけれど、「ここぞ」という時に使う。フィルムじゃないとどうしても出せない風合い、っていうのは間違いなく存在するから。そんなわけで、今うちには都合3台のカメラがあるのです。完全に用途別。意味もなく3台もあるわけじゃないのよ。ほんとはね〜、交換レンズ式のデジタル一眼も欲しいっちゃ欲しいんだけど、そんな大砲を持ち歩く気力も体力もここのところ欠けてきたので、それはもうなかったことにする予定。むしろDVカメラが欲しい。フルオートで意味もなくフォーカスが合ってしまうようなんじゃなくて、マニュアルフォーカスできたり、シャッタースピードいじれたりするようなの。その手のは高いんだよな〜・・・はっ、その前にOSをいい加減Tigerに切り替えなくては。とりあえず外付けHD増設かな〜。iBookも良いな〜。映像編集用に1台買っちゃおうかな〜。預金残高と相談だな〜。
2005年8月25日(木) 愛の本、力の本
愛の本 = iBook
力の本 = PowerBook
微妙なタイトルで失礼。
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今のG4さんは限界まで使い倒す予定なので当分はがんばってもらいますが、いい加減セカンドマシンの必要性を感じています。いきなりお亡くなりになって作業がまったく進まなくなってしまうと本気でシャレにならないし、今のマシンに周辺機器をべたべたくっつけていくよりは、たとえばデフォでDVD-Rを積んでるようなマシンにした方がたぶん、効率は良い。Windowsマシンも考えたんだけれど、そっち用にまたアプリを買い直すと大変なことになる予定なので、ひとまずは保留。というわけで、愛の本とか力の本とか、そういうことなのです。
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今の所考えている予算は20万。これでどこまでスペックの高いマシンを入手できるか、物色してみました。まずはPowerBook。17インチモデルは最低ラインが30万超なので除外。15インチモデルは微妙なところで20万超。12インチモデルだとなんとか20万におさまるのだけれど、ディスプレイが小さいのが問題。次にiBook。12インチモデルだと12万でいける。14インチモデルでも15万強。HD容量を少し落とせば13万もあれば事足りる。かなりメモリの食いそうな作業をさせる予定なので、メモリ増設でも15万くらい。うむ、いけそうだ。がたいがややでかいのが気になるけど、考えてみたら別にMacもって散歩するわけでもないし、そんなに問題ではない。とりあえず暫定的に決定。
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もちっと先を考えてみる。プロジェクターにつなげられるかどうか、の問題。そのまんまの状態だと確かにつなげない。けど、別売アダプタがあればいけそうだ。ちなみにアダプタは1万少々。おお、なかなか良い感じじゃないか?うちのお給金ではさすがにプロジェクターまでは手がでないので、それは別口でどうにかする。そんなこんな感じで。
2005年8月26日(金) 言葉はときに本質を覆い隠す
ああ、そうか、と。言葉は本質を突くものと思っていたけれど、使いようによっちゃ本質を覆い隠すことだってできるんだ。それは嘘とは違う。嘘は意図的な誤りだ。でも、その誤りによって逆説的に本質を白日の下にさらすこともある。でも、本質を覆い隠す言葉は違う。そこに誤りはない。手品と同じように、意図的に本質からずらした場所に目を向けさせる、ミスディレクションのテクニックだ。だから、それは嘘よりも質が悪い。そうやって物事のシンプルな本質が漠然とした霧に包まれ、本来見るべきものを見失う。
2005年8月27日(土) 大型化
テレビが大型化しております。液晶とかプラズマとかで最大は65型だそうな。液晶技術がなかったら日本は経済的に完全にアウト、とまでいわれているお家芸なわけです。確かにあれだけでかい液晶パネルを作る、ってのはかなり大変だ。陶芸の世界には「寸倍」という言葉があって、ある大きさ以上になると、それを一寸大きくするだけで値段が倍になる、という意味。それだけ、大型化という技術はすごいのです。ま、その逆にCPUみたいに小型化・高集積化でとんでもない技術があるわけなんだけれども。
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でかい液晶パネルってのは確かに技術的にすごいし、それを低コストで作る、ってのはもう技術者の血を吐くような努力のたまものなんだろう、と思います。それはすごい。認める。でもさぁ、そんなにテレビをでかくしてどうしようっての?と思う気持ちもあるのです。
え?
だって、テレビ番組、下らないじゃん。
2005年8月28日(日) ご満悦
昨日は高校んときの同級生が出演してる芝居を見にいった。なんで舞台に立つとあんなに渋いんだ!?普段はエロ親父なのにな、くそ〜。なんか悔しい。だまされた。
その後、某店でライブ。1年以上いってなかったからかなり久しぶり。ああいう照明で写真撮ることなんてあんまりないから、演奏はほとんど聴いてなかった。失礼。でも良い写真が撮れた。はまるときははまるもんだね。ちょろっとプチ写真講座してみたり、アルコール入ってみたり、それはそれでご満悦だったのでした。
追記:珍しくトップをちょっと(かなり?)いじってみた。せっかく撮ったんだし、放置するのもアレなんで。
2005年8月29日(月) 自由/束縛
たいていの人は“束縛”という言葉を嫌い、“自由”という言葉を愛する。“束縛”という概念を憎み、“自由”という概念を賞賛する。けれども、その感覚とは裏腹に、人は互いに互いの自由を奪い、すすんで束縛し、束縛されているように見える。「自由にやって良い」と言うと、途端に思考停止に陥り、道を見失い、何もできなくなる。
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逆説的になるけれども、“自由”はある種の監獄のようなものだ。ただ、そこには檻もなければ柵も錠前もない。同時に道もなく、規範もルールもない。
『人は自由の刑に処せられている』
サルトルはそう語る。
2005年8月29日(月) 更新
そんなこんなで使用許可おりたので、トップに写真3点のっけてみた。
次の更新(来月の予定)まではこのまま放置の予定。
写真ネタは久々なのでなんかしら感想いただけると嬉しいのです。です。
2005年8月30日(火) 囚人と看守/赤い帽子と黄色い帽子
被験者は40名。一方を看守役、一方を囚人役とし、それぞれに看守用の制服、囚人服を着せ、2週間、それぞれの役を演じさせる。使用したのは大学構内に作られた実験用の監獄。囚人役の被験者は監獄に入れられ、看守役はそれを監督する。
・・・7日後・・・
看守役は囚人役に数日前から暴力をふるっている。囚人役は抵抗し、脱走を試みる。「秩序を守るため」という名目の下、看守役の暴力はさらにエスカレートする。予想以上に混乱した状況のため、2週間の予定だった実験は7日で打ち切られる。
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被験者はとある小学校低学年の1クラス。無作為に2つのグループに分け、一方には赤い帽子を、一方には黄色い帽子をかぶせる。担任教諭はクラスに向かって宣言する。「赤い帽子の子は良い子です。黄色い帽子の子は悪い子です」。授業の際、教諭は赤い帽子の児童を露骨にひいきし、黄色い帽子の児童を故なく非難する。
・・・昼休み・・・
赤い帽子は赤い帽子同士、黄色い帽子は黄色い帽子同士、集まってグループを形成する。赤い帽子の児童たちは黄色い帽子の児童たちに悪意ある言葉を投げかけ、差別する。黄色い帽子の児童たちはいじけるか、粗暴な態度で暴力に訴える。その様子を見て、あまりに危険だと判断した実験者は、即座に実験を中止する。
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以上2件の実験は、社会学、社会心理学の立場から、権威が行動に及ぼす影響を調べる目的で実際に行われたものである(学生の頃、実験の様子を撮影したビデオを実際に見た)。特に看守と囚人の実験はシチュエーションこそ違え映画化され、あまりに生々しい描写が反響を呼んだ。両者の実験とも、権威に盲従してしまう様、差別が発生する様を極めて生々しい形で表面化する。どんなに否定しようとも、これも人間の本性の一つの側面である。
※これらの実験は、人道的な理由から、現在は決して行われない。しかし、現実の組織の中でこのような状況が発生することがよくあることも、十分銘記されたい。
2005年8月31日(水) 饒舌は罪
効果的に配置された余白は丹念な描き込みと同様に画面を引き締める。沈黙がときとして多くを語るように、余白は多くを物語る。しかし、それは計算されつくした余白に限られる。無為に設けられた余白は多くの場合、“手抜き”の誹りを受ける。平面に限らず、空間でも同様である。それは余韻を残し、言葉にならない言葉を語る。それは、あえて語らず、個々が無に有を生じさせるための“装置”でもある。
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饒舌は罪である。言葉は区切り、規定し、囲い込み、枠の中に追いやる。それはある種の都市である。豊かな辺境を消去し、壁の中で充足する。はみだしゆくものを忌避し、固定された観念の中で行き詰まっている。閉じた系は己の中のエネルギーを使い果たし、やがて冷え固まり、死を迎える。饒舌は“言葉以前のもの”に対する死の宣告である。
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あえて語らぬ美学。