日々の泡粒

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2005年9月1日(木) 何か出てます?

座って黙って煙草吸ってると非常に話しかけづらい、と親戚にも言われるくらいなんですが、そんなに何か出てます?一応は職場を出て仕事離れたら対応はプライベートモードにしてるんだけど。そりゃぁさ、職場で外と同じ対応されたらこっちはむっとするけど、仕事とは関係ないんだもの、そこは分けてるつもりなんだけどなぁ。やっぱり怖いか?ん〜。

2005年9月2日(金) 円の話

為替レートの話じゃないよ。

----

もう3年以上前になろうかと思いますが、運動を直線的な時間軸じゃなく、ある種の周期として考えると、実はものごとすっきり説明できるんじゃないか、という話をしたことがあります。そもそも“時間”という概念はかなり仮説的なものだと思ってますし、実際“時間”というものが独立して存在するんじゃなくて、運動という現象をいくつかの要素(ニュートン方程式でいうと質量と時間と速度)に分解した際に付随的に生じる、いわば“影”のようなものなんだろうな、と。

----

時計、というものを考えてみます。一日は24時間に区切られ、1時間は60分に区切られ、1分は60秒に区切られています。じゃあその1秒って何か、と考えると、現在はセシウム原子の振動周期を何万倍だか何億倍だかしたものを1秒、と定義しているそうです(細かいところは違うかもしれませんが)。考えてみれば、1日というのは地球の自転周期だし(1日が自転周期を規定するのではなく、自転周期が1日を規定する)、1年というのは地球の公転周期なわけだし(同様に1年が公転周期を規定するのではなく、公転周期が1年を規定する)、それを60進法で分割していけば、単純に1日なり1年という“時間”が発生するわけで、“時間”という概念の出自そのものが、すでに“運動の影”なわけなのです。だから、運動を直線ではなく周期として考える、というのは時間概念の出自から考えて、実は極めて自然な発想なわけなのです。お分かりかな?

----

円、という図形は面白い性質を持っているんだ、と教えられました。「同じ周の長さをもった図形の中で、円がもっとも面積が大きい」んだそうな。なので、さっきちょっと計算してみた。仮に半径を1、円周率をπとおいたとき、これと同じ周をもつ図形を考えます。とりあえず話を単純化するため、正方形と正三角形を考えます。さぁ、中学の時の公式を思い出してみましょう。

円周=2πr
r=1より、この場合、円周は2πとなります。

ですから、正方形、及び正三角形のそれぞれの1辺の長さは次の通りになります。

正方形=1/4 * 2π
正三角形=1/3 * 2π

正方形の面積は1辺の自乗、正三角形はちょっと面倒ですが(底辺*高さ)/2なので、高さを求める必要があります。直角三角形の斜辺は√x^2+y^2なので、

高さ=π^2/√3

となります。さて、それぞれの面積を比較してみましょう。

円・・・π(r=1なので)
正方形・・・π^2/4
正三角形・・・π^2/6√3

π/4もπ/6√3もπより小さいので、正方形、正三角形ともに円より面積が小さいことになります。おお、すげぇ。他の図形は面積を出すのが面倒なのでやってませんが、たぶん、角が増えていくに従って面積も限り無く円に近付いていくんでしょう。円周率を正n角形から近似的に求めるのと同じ発想なんだと思います。誰か証明してください。

※だだだっと考えてみたんだけれど、一応、半径rと同じ長さの周を持つ正多角形の面積は次の式で求められそうです(式の導き方は自分で考えてね)。この式を使ってExcelかなんかでグラフ化してあげると、r=1の場合、面積が限り無く円周率に近付いていくことがわかります。

n・(2πr/n・πr/n・tanθ)/2

n=角の数
θ=正多角形のひとつの角度の半分

正n角形のひとつの角の角度は次の式で求められます。

(180°*n-180°)/n

----

と、いうわけで。

----

時間は概念として在るのみで、実在はしない。従って、実在としての過去はあり得ないし、実在としての未来もありえない。時計が刻む“時間”はあくまでも“周期”を分割したものに過ぎず、円の一部の弧を取り出したに過ぎない。アナログ時計が円を描くのは極めて適切なメタファーである。
昼の後には夜がきて、夜の後には朝がくる。春が過ぎれば夏がきて、秋を通過し冬がくる。我々が感じている“時間”とは、すなわち“周期”の弧の一部である。時間tは運動方程式を解くための方便でしかない。tにある数値が代入された瞬間、弧は直線となり、連続体としての“世界”を寸断する。“世界”はそれほど、デジタルなものではない。

・・・ってさ、分子動力学やってる人間が言っちゃいけないよね・・・

2005年9月3日(土) 極めてスポンジ

る〜る〜る〜♪

----

いぇい、今日はとっても頭が悪いのです。
脳がスポンジ状態なのです。何を考えているのか自分でも分からなくなってくるのです。
スポンジ、スポンジ、それっぽく発音すると「すぱんずぃ」なのです。

「すぱんずぃ」

りぴーとあふたみ?

・・・・

わんもあたーいむ。

・・・・

ハイヨクデキマスタ。
めるすぃ〜ぼっく〜。

----

る〜る〜る〜♪

2005年9月4日(日) 光の記憶

写真はレンズを通して入ってきた光をフィルムに定着させたものである。
それはいわば、“光の記憶”とでも呼ぶべきである。

2005年9月5日(月) 越境する多様性

今の社会、文化のキーワードは“多様性”と“越境”であると思う。

----

仕事の合間になんとなくNHKを見てたら、“東京JAZZ”とかいうイベントのことをちらっとやってた。わ、そんなビッグネームをほいほい呼んじゃうのか、仙台のジャズフェスとはスケールがちゃうなぁ、と思って見てたのだけれど、出てくる楽器がもうジャズの枠を明らかにはみだしてた。ピアノ、トランペット、サックスあたりのスタンダードなのは当然なんだけれど、コンガとかジャンベとか、津軽三味線とか・・・それってもう“ジャズ”っていうジャンルじゃくくりきれないものになってるよね、と思った。

----

で、ふと思い出したんだけれども、お盆前に某M氏と長々と話をする機会があって、音楽のこともちょろっと話した。五線譜に書ける音っていうのは限りがあるし、きれいなメロディー、心地よい和音っていうのは実はもうほとんど出尽くしてしまっている。例えばそれがロックだったりテクノだったりジャズだったり、それぞれ特有のリズムとメロディーをもった“ジャンル”という枠組みの中で完成されてきたんだけれども、その中からまったく新しいものを生み出すのにはそろそろ限界がきている。ジャンルの細分化は多様化した価値観を反映したものではあるんだけれども、その価値観がシフトしつつある昨今、必ずしも確立されたジャンルで対応できるか、といったらそうでもない。だから、ジャンルとジャンルの境界領域で“越境”が発生する。ジャズのイベントに津軽三味線が登場するのがその際たる例だ、と思った。

----

“越境”は“融合”であり、いきつくところは“統合”である。
アインシュタインが夢見た“大統一場理論”とはだいぶ異なった形ではあろうけれども。

2005年9月6日(火) 自我の戯れ

たぶんいろんな人がいろんな形で感じていることなんだろうけれど。

----

作品を作っているとき、いつも変な感覚に襲われる。作っている自分を遠くから眺めているような感じ。自分は肉体と共にあって、画面を見ながら思考し、マウスを動かしているのだけれど、ふと見ると考えもつかなかったような色や形を作っていることがある。

“これは誰が描いたんだ?”

と問いかけてみても、いるのは自分だけだ。でも自分じゃない感じがする。デカルトの言う「思考する我」という存在だって、こういうフェイズでは懐疑の対象となってしまう。自我を構成するものは、必ずしもいま認識している“我”ばかりではない、ということ。

----

たぶん、“自我”というものはそれほど強固なものではないんじゃないか、と思う。ある種の“連続性”が自己同一性を規定するものではあるんだけれど、その“連続性”だって必ずしもしっかりと保証されたものではない。“連続性”を保証するものは“連続している”という信念、あるいは思い込みである。そしてその信念、あるいは思い込みは、実は簡単に崩壊してしまう。“自我”を世界につなぎとめているのは記憶であり、社会であり、他者である。“自我”の存立基盤は己の中にのみ存在するのではなく、他者との関係性の中で育まれ、定位される。だから、上記の例のように、部屋の中にひとりでいるとき、“自我の逸脱”がより容易に発生するのではないか、そんな風に考えてみた。

----

とはいえ、これはそれほど不快な感覚ではない。奇妙ではあるけれど、それは心地よい浮遊感を伴う。他者や社会の束縛から逃れた、“自我の戯れ”である。

2005年9月7日(水) 生きる力、考える力

なんでこんなものが教育の場であーだこーだと議論されなきゃいけないのか、いまだに理解できません。

----

曰く、最近の子供達は“生きる力”が弱いから、簡単に自殺してしまうし、凶悪犯罪の低年齢化が進んでいるんだ。

曰く、最近の子供達は“考える力”が弱いから、困難に直面したときに安易な解決策を選んでしまうんだ。

諸悪の根源は詰め込み型の学校教育にある。だから、教科書の内容を減らして“ゆとりの時間”を作り、その中で“生きる力”や“考える力”を育みましょう。

----

馬ッ鹿じゃねーの?

----

“生きる”ってどういうことか、きちんと考えたことがありますか?
“考える”ってどういうことか、きちんと考えたことがありますか?

それは教えられるものじゃない。簡単に言葉にできるものじゃない。自分の体を使って、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現するものだ。それは“学校”という閉鎖的な場ではできないもので、自らの手で切り開いた世界の先にあるものだ。大人達だって“生きる”ということに悩んでいるし、“自分の頭で考える”ということに困難を感じている。まだ世界を十分に知らない子供達にそれを押し付けてどうしようというんだろう?

----

子供達は大人達が思っているほど弱い存在ではないし、何も考えていないわけじゃない。子供達の想像力の豊かさ、思い掛けない力強さに驚き、感動することがよくあるでしょう?それを“生きる力”だの“考える力”だの、つまらない言葉の枠内に閉じ込めてしまうのはかえって良くないことだと思うんだけれど?

----

“生きる力”が足りないのは、“考える力”が足りないのは、それが「教えなければ分からないこと」と考えるあなたたち、“大人”だ。

2005年9月8日(木) まみれる

なんかいろんなものにまみれておりますが。基本的にまみれてるのはネタだったりするのですが。大変なのを通り越すとなんだか楽しくなってきちゃうんだよね〜。ランナーズハイ?あはは〜。

2005年9月9日(金) 世界

そりゃぁさ、うちにもいろいろあるわけよ。
3時間くらい正座させて説教したくなったりさ。
首根っこひっつかまえてぐらぐら揺すぶってみたくなったりさ。
キーボード叩き付けて怒鳴り付けたくなったりさ。
いろいろあるわけよ。

でもさぁ、んなことしたって何の解決にもならんのよね。
一時的に自分はすっきりするだろうけどさ。
結局のところ対症療法でしかないんだもの。
悪くなった臓器を、じゃあ切り取っちゃいましょう、ってのと同じでしょ?
じっくり取り組めば切り取らなくても元に戻すことだってできたわけなのに。

本当はさ、“自然治癒力”っていうのにはそんなに期待してないのね。
もとの根性がねじ曲がってたら、たぶんほっといてもそのまんまだろうしね。
つーか、“根性ねじ曲がってる”ってこと、たぶん気付いてないんだと思うね。
それでもさ、じゃあそのねじ曲がった根性を引っこ抜いてあげましょう、とはいかないわけでしょ。
だから、なんとか真直ぐにしてあげたいと思うわけ。

「漢方薬」ってあるよね。
あれさ、昔はすごいうさん臭いな、って思ってた。
それでもいまだに使われてるし、病院にも“漢方薬科”ってあるところにはあるのね。
じゃあなんで使われてるか、って考えると、効くからなんだよね。
ただ、その効き方がいわゆるお薬と違って、対症療法じゃないのね。
原因を引っこ抜くんじゃなくて、“体の調和を回復させる”っていうやり方。
うまい言い方じゃないかもしれないけど。
だから、西洋医学で使われる薬じゃどうしようもない人たちのために、漢方薬って使われてるのね。

いきなり話が漢方薬にとんじゃったけどさ。
“言葉”っ%8

2005年9月11日(日) 

細長く引き延ばされ、蜘蛛の巣のように張り巡らされたもの。
いくつもの声が飛び交い、やがて消えてゆく。
そしてしばしば、あのちっぽけな機械の前で言葉を失う。

2005年9月12日(月) 「ありがとう」

旧約聖書、詩編第23編より。

----

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく
 わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしをちからづける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。


----

詩編の中でももっとも有名でもっとも美しいとされる第23編。そう教わるまでは、そういうものだとは知らなかった。でも、これは確かに、ユダヤ教、キリスト教のエッセンスを濃密に凝縮させた一節であると思う。

----

何度も言うようだけれど、僕は信仰をもたないし、キリスト教神学もまったく知らない。だから、“主”の在り様ってよく分からないし、それを信ずる心性もきちんとは理解できない。僕に分かるのは、世界を取り囲むものすごく大きな存在がある、ということだけ。その存在を“知っている”ということとそれを“信じ愛する”ということは、たぶん決定的に違うことなんだろう、と思う。

----

信仰を持たないからといって、聖書が嫌いなわけではない。むしろ、聖書から学ぶことはどんな人にだってあるのだと思う。もちろん、中東という風土・文化があった上での思想だから、全部が全部受け入れられるか、といったら答えは“No”だけれど、それでも、聖書の中にはいくつか、好きな言葉があるのも確かだ。

----

僕は第23編の“主”を“あなた”と読み替えることにしている。
それは特定の誰かではなく、僕に二人称として相対するすべての誰かのことだ。
だから、あなたも、「あなた」も、(あなた)も、皆“あなた”に含まれる。
“あなた”は僕の世界を形作った。そして今でも、形作ってくれている。未完成の僕の世界に形を与え、色を与え、音を与えてくれている。“あなた”が形作り、“あなた”が取り囲んでいる世界の中で、僕は“あなた”に出会い、変容していく世界を目の当たりにする。それはときに絶望に満ち溢れ、ときに希望に光り輝いている。

----

ときどき、自分がものすごく嫌いになることがある。
自分が嫌いになるときは、決まって、誰かを嫌いになったときだ。
故もなく誰かを嫌いになり、攻撃的な衝動が渦を巻き始めた瞬間、世界が色を失う。

----

そういうとき、“あなた”のことを思い出す。
“あなた”の存在を感じ、“あなた”の言葉を繰り返す。

「世界はそんなに悪いものじゃない」

それは僕の言葉ではなく、“あなた”の言葉だ。
そして僕は、小さな声で「ありがとう」と囁く。

2005年9月14日(水) 謎のメモ

crystalize
1.結晶化させる
2.<思想・計画などを>明確にさせる
3.砂糖づけにする

1.結晶化する
2.明確な形をとる、具体化する

crystal
1.水晶、(氷のように)澄んだ透明な鉱石
2.結晶、結晶体
3.水晶製品、水晶玉
4.クリスタルガラス、高級鉛ガラス
5.(時計の)ガラス
・・・

水素化・・・hydride
酸化・・・oxide
硫化・・・sulfide
炭化・・・carbide

ゲーテ「ファウスト」より
火・・・サラマンデル(夏)
水・・・ウンディーネ(冬)
風・・・ジルフェ(春)
土・・・コボルト(秋)

四大元素の象徴
季節は陰陽五行から

火・・・calcinatio(もやす)
水・・・solutio(とかす)
土・・・coagulatio(かためる)
風・・・sublimatio(たかめる)

第一作業から第四作業まで

2005年9月15日(木) 内省の光

繰り返すのは己の内の言葉。
ゆくあても知らぬ光を辿って巡り行く指先。
閉じ始めた円環の端をとらえて
声を失い、鳥を見上げる。

2005年9月16日(金) 99%のロジックと1%のセンス

デザインは99%がロジックで1%がセンスだと思っています。
デザインに限らず、何でもそうだと思うんだけれど。
要は、やったこともない綱渡りをいきなり命綱なしでやろうとするようなもの、怪我をするだけです。

----

体験談から。

初めてカメラを手にして写真を撮ったとき、絞りもフォーカスもシャッタースピードもフィルム感度もなにも知らなかった。だもんで、現像から上がってきた写真は見るも耐えないようなものばかりだった。なんでこんな写真しかできなかったのか、いろいろ調べてみた結果、基本になるそういう部分を全く知らないでいきなり写真を撮ったのが原因だ、ということが判明した。なので、ニコンのサイトで一眼レフの構造から何から勉強しなおして、改めて写真を撮り直した。そしたら、まぁ、初心者なので下手は下手なんだけれど、いくらかはましなものが出来た。で、下手な理由を探っていったら、やっぱり基本的なところがまだ足りなかったことが判明した。

----

こういうことはデザインに限らない。
哲学にはソクラテス以前からの長い歴史があるし、数学にはインドを発祥とする数概念の長い歴史がある。ニュートン力学を知らないでアインシュタインを理解することは決してできないし、ユダヤ教を知らないでキリスト教を理解することはたぶんできない。デザインだって長い歴史の中で厳しい淘汰にさらされて現在に至っているわけで、確かに流行云々はあるだろうけれど、ベースになる部分はかなり完成されている、と言って良い。それがロジックであり、そこに加えるひとつまみのスパイスが、個々のセンスである。

----

料理にわずかのスパイスを加えるとぐっと味がひきたつ。
でも、あんまり入れすぎると気持ち悪くなるだけでしょ?

2005年9月17日(土) iBookさん

とうとううちにiBookさんがやってきました。今月の給料が入ったので、そのままヨドバシに直行。14inch、HD80GBに512MBのRAMを増設してついに1GB超のマシンです。

----

思えばここまで長かった。
預金残高18円から出発しておよそ2年。泣きそうになりながらもなんとかここまで這い上がってきた。嫌なことだってそりゃあったさ。でも、なんとかここまで生き延びてきた自分にご褒美の意味も込めて。
こうやって何とか生きて、作品が作れて、それを評価してくれる人がいるってこと、それだけでも幸せなことだと思う。いろんな人たちに「ありがとう」と言いたい。

----

で、さっきちょっと起動してみた。・・・なんかえらい速いんですけど・・・G4さんのOSXは外付けHDにしてるから、そのせいもあって遅いんだけど、iBookでもあれだけ速いのね・・・かなりあなどってた。失礼。ま、基本的には作業用に使うわけなので、速いにこしたことはない。うむ。

----

そんなこんなで、この3連休はiBookさんと遊んでます。骨の随までしゃぶりつくしてやる。

2005年9月20日(火) 潜行と浮上

休めるときは休んどかないと後が続かないので、おかげさまで3連休してました。ありがとうございます。

----

休みの間、デザインフェスタ用の作品をせっせと作っておりました。今回のは、ぱっと見は分からんと思うのですが、記号だの象徴だの、なんだかいろんなものがぐっちゃぐちゃに混ぜこんでありますので、そういうイメージをいっこいっこ掬い上げていくために深く深く潜っていく必要があります。外部からの無数のインプットは複雑な変容過程を経て、内部でいくつかの渾沌としたイメージにまとめあげられます。それを並べ替え、序列をつけ、ときには渾沌のまま、意識の上部に引き上げてきます。後はそれを目に見える形に置き換えていくだけで、最後の作業が一番楽です。え?だってPhotoShopいじり倒すだけだもの。

----

意識の奥底に沈んでいるものは、ときに自分自身にすら隠されている。それを無理に引き上げようとすると、フロイトのいうエゴだの自我だのの抵抗を受ける。だから、イメージの引き上げには慎重を要する。

----

そんなこんなで3日間潜りっぱなしでしたが、浮上してきましたよ。
かなりなペースで仕上げてしまいました。予想ではもっと時間かかるはずだったんですが。
ま、予定はあくまで予定ってことで。美人ぞろいですわよ、うふ。

2005年9月21日(水) 磨きをかける

作品はそれを作った段階での自分の集大成であって、ひとつの到達点ではあるのだけれど、終着点では決してない。もっともっと上があるはず、と常に言い聞かせつつ、見上げればきりがない上を目指していく。五感をより鋭く、より多くの知を吸い上げ、技術に磨きをかける。そして、作品に対する熱意を保ち続ける。

----

半年前、"sealed lights"を作ったとき、その段階ではもうこれ以上ない、と思った。
でも、今回の作品を仕上げてみて、あれは終着点ではなかったと思った。
今回の連作は確かに、今の段階での到達点ではあるけれども、また半年後にこれを見た時、どんな風に感じるんだろう?

----

作品作りは自分との格闘である。怠惰と妥協と慢心を抑え込み、ぎりぎりのラインまでもっていく必要がある。自分自身を限り無く磨き上げていくこと。摩擦によってすり減り、不要なものがすべて削ぎ落ちていくまで、どこまでもどこまでも磨き上げていくこと。

2005年9月22日(木) 通り抜けるべき場所

「急に描けなくなって悩んでいる人」の話を聞いて、いろいろ喋ったり考えたりしました。

----

自分自身、学生の頃に描けなくなった時期がありました。美大や専門ではないので課題なんてあろうはずもなく、それはそれでお気楽だったのですが、とはいえ、これまでできていたことができない、という重圧はけっこうきついものです。その期間はだいたい3ヶ月程度だったわけなのですが、その間、アウトプットはいったん止めて、インプットに集中しました。絵を見たり映画を観たり本を読んだり音楽を聞いたり。ある日突然「描こう」と思い立って描いたものは、これまで自分が描いていたものとはまるで違うものでした。

----

こういうのって、絵に限らずどんなことにでもあると思う。特に若いうちは、経験も少ないし技術も足りないし、それにも関わらず見る夢は大きいから。だから、そういうのに近付いている一歩だと、考えれば良い。

----

人が一生、全く変わらずに生きていく、ということは現実的にはできません。環境はどんどん変わっていくし、それに合わせて変化していきます。経験と知識が増え、技術も磨かれていきます。それによって、自分に対する要求水準だって高くなっていく。ちょうどその狭間にいるのだと思います。つまり、自分に対する要求水準は高くなっているのに、それに経験なり技術なり、そういうものが追い付いていない。だから、「できなくなった」のではなく、「より高いものを求めるようになった」のだと。それが「できなくなった」ように見えるだけなのだと。とはいえ、正体不明の病気に病名をつけてもらって、変に安心して薬も飲まなくなるのと同じで、それで安心してはなんの意味もありません。自分に求めるものがより大きく高くなっているのだから、それに見合うだけの知識と技術を身につけなければならない。それは苦しい道行きだけれど、通り抜けるべき場所だと、思うのです。

----

変化や転機は誰にでも訪れるものです。それに潰されてしまわぬよう、自分に磨きをかけることを怠ってはいけない、とこう思うのです。

2005年9月26日(月) M氏

相変わらず楽しい人でした。
わたくしはといいますと、3日間出勤してました。
フルタイムじゃないけどね。
仕事LOVE。ビバ仕事。満漢全席、四川料理。
素晴らしきポストモダンな世界。
さぁ、みんなで脱構築しようじゃないか。
解体、解体。

2005年9月27日(火) 30秒

映像編集始めました。冷やし中華始めましたばりに。つーか寒いっつーの。
前々からやってみたかったんだけれど、ようやく。
まだ始めたばっかでアプリの使い方からなんだけどさ。
だいたい3分半くらいなんだけど、30秒作るのに1週間かかったよ・・・
それ考えると2時間の映画作るって大変なんだなー、と思う今日この頃。

2005年9月28日(水) 歪み

左手薬指の先がほんのちょっと、痛みます。ちょっと熱を持って腫れたような感じなので、ほんのちょっとの傷から何か入ったのでしょう。普通にしている分には気にならないのですが、キーボードを打っているとき、あ、痛むんだ、そうだそうだ、と思い出して変な違和感を感じる程度です。そういえば昨日今日とキーの打ち間違いがやたらと多く感じるのですが、もしかしたら左手薬指で打つべきキーを避けているのかもしれません。

----

靴の中に気付かないほど小さな石のかけらが入ると、歩き方が大きく歪んでしまうそうです。本人は意識していなくても、足の裏というのは敏感な部分ですから、違和感を感じるとそれを感じないように足の設置面をわずかにずらします。そのわずかなずれが全身に波及して歩き方を歪めてしまう、のだそうです。

----

ある材料の物性も同じです。わずかな結晶構造の歪みが重大な欠陥を引き起こすことがよくあります。1%の歪み、というと値としては小さなものですが、原子分子のスケールになると1%は極めて大きな歪みです。それが5%10%となると、もうとんでもないスケールになってしまうのです。

----

歩き方の例でも見たように、おかしな話かもしれませんが、人の体は小さな歪みを矯正しようとするよりは、その歪みに全体をあわせるように働くようです。ですから、大きな歪みは多くの場合、ほんの小さな歪みから生じている、と考えるのが妥当なようです。たぶん、人の心も同じなのでしょう。全体的に歪んで見えても、その原因を探っていくとほんの小さな歪みでしかない。その小さな歪みが全体を歪ませ、脆く壊れてゆく。その大きな歪みにばかり目がいって、元となった小さな歪みには目がいかないのが、たぶん、いろんなすれ違いの元となっているように思います。それを探し当てるのは、決して容易なことではありません。

2005年9月29日(木) 謎の経歴

東北大学文学部心理学研究室卒業
 ↓
某印刷会社Webデザイナー
 ↓
東北大学工学研究科応用化学専攻M研究室(計算化学)

必ず突っ込まれます。その経歴は一体なんなんだ、と。
いや、そんな喧嘩腰じゃなく、「あの〜、この間にはいったい何があったんですか?」と本気で不思議がられます。
某M氏には「デザイナーやりながら量子化学やってる人間なんて実在しないから」とか言われる始末です。ふむ、そうか、うちは実在しない人間なのか。
つか、たまたま拾ってもらったところがそういうところばかりだっただけで。
たしかにおかしいっちゃおかしいけど、文系学問と理系学問両方やってた非美大卒のデザイナーだって、いたって良いじゃん。デザインのことしか知らないデザイナーより稀少価値があると思うんだけど、どうよ?

----

大阪にいたとき、ある建築家さんとお話しする機会がありまして。

「こないだカメラマン志望の専門学校生と話をしたんだが、ありゃだめだ。写真のことしか知らん。どうして哲学とか宗教とかを勉強してこないのかね?」

あの〜、心理学専攻だったんですけど〜、とぼそっと呟いたら「ああ、そりゃ失礼」と。その方、結婚するとき嫁さんがクリスチャンだったからどうせだったら、と洗礼を受けてクリスチャンになったそうで、ごそごそと聖書の話をしてみたり、現代哲学の話をしてみたり。微妙なひとときを過ごしたのでありました。

----

学校の勉強は社会に出たら何の役にもたたない、とよく言われます。
確かに、ウィトゲンシュタインの言語哲学なんて役にたたないし、ラメルハートの言語心理学なんて役に立たないし、アインシュタインの相対性理論なんて役に立たない。でも、役にたたないのは個別の理論そのもので、そういうものを体系的に学び、それを運用して物事を体系的かつ論理的に考える、という訓練にはなる。
前にも書いたけど、デザインに数学は必要ない。でも、ロジックは必要だ。センスはほんのちょっとあれば良い。そのセンスだって、訓練次第でどうとでもなるものだ。どんな物事でも、ある程度はロジカルに考えることができないと、説得力もないし、まとまりもなくなる。センスだけで押していこうと思ったら、必ずどこかで落とし穴にはまる。それは間違いない。

----

デザインはあくまでもビジネスの線上にあるものだ。そのことを忘れている人がとても多い、気がする。

2005年9月30日(金) うわき

そんなに簡単に人を好きになったり嫌いになったりしないので、簡単に浮気しちゃう人の心性がそもそも理解できなかったりするのですが。当然そういうことで苦しんだり傷付いたりするであろう人も多々いらっしゃると思うので、何か一言。

----

世の男共が浮気する、っつったら大概は性欲処理なだけだと思うのです。“だけ”っていっちゃうと女性の皆様にものすごく失礼な発言かもしれませんが、まあ聞け。風俗があんなににぎわっているのは、「金を出してもいいから」と思う男共がいるからだ。そういう類いの連中は、自分がぶらさげているやっかいなモノを制御できない。まぁ、確かになんでもかんでも溜め込んでしまうのは健康上よろしくないから、あんまり溜めるのもどうかとは思うんだけれど、単純に「ヤれるからヤる」という発想は安易だ。それは非難されてしかるべき理由がある。そんな男は斬り捨ててしまえ。

----

とはいえ。
長い人生の間に、どれだけ多くの人間に出会うと思いますか?世界の全人口からみたらほんのわずかかもしれないけれど、ものすごい数の人と出会うはずなのです。そして、その中からたった一人の相手しか好きにならない、というのは確率論的にいってあり得ないことです。たまたま本気で好きになった相手が二人いたとしたらどうか?性欲処理云々を超えてしまったところまで感情がいってしまったらどうか?正直、そういう経験がないので答えることができません。でも、少なくとも、そこまで本気だったら浮気とは呼べない。たぶん、自分だったら苦しむ。かなりきついと思う。そういうややっこしいところにはまり込んだりはしたくない、と思うけれど、この先、どうなるかなんともいえません。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

sasuke@rb3.so-net.ne.jp
Akiary v.0.51