日々の泡粒

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2005年10月3日(月) 本質的なこと

物事の本質に関わることには、答えはない。それが答えだ。
世界の成り立ち、生命の有り様、心、神。
それらの「何故」に答えはない。答えがないからこそ、全てが答えとなり得る。
これまで提示されてきた答えに満足できないなら、答えを自分で作ればいい。
複雑な方程式なんか知らなくても、荘重な言葉なんか知らなくても、自分の手で世界を作り出すことができる。
それは誰にだってできることだ。

----

世界は美しく、同時に醜い。
矛盾を孕みつつも、全てをやさしく包み込んでいる。
自分の心の奥底を覗き込んでみると良い。
相反する感情が、互いに打ち消し合いもせず、同時に存在していることが分かるだろう?
人のちっぽけな心ですらこうなのだから、世界についてはいかほどだろう、と考える。
色即是空。空即是色。
在るということは同時に無い、ということであり、無いということは同時に在る、ということ。
在と無は同時間的・同空間的な出来事である。

----

とはいえ、世界はあまりに広すぎる。
すべてを受け入れるにはあまりに時間が短すぎる。
だから、そのわずかな片鱗でも、と思う。
見、聞き、触れ、味わうこと。
それらをまとめあげ、どんな形であれ、何かを作り出すこと。
その力は、だれもがもっている。

----

You are gifted.
You can create all you imagine.
Don't afraid, because you are protected by something avobe.
It's called many names.
Someone call "God", someone call "Universe", and someone call "unknown things".
But they are same thing. You call same thing with other name.
Yes, I know you are gifted.

2005年10月4日(火) 急発進・急停止

巻き込まれて迷惑している方、もしかしたら多数かもしれず、それについては弁解の余地もあったもんじゃないんですが。少し前にえらそうにロジック云々書いてましたが、すまん、元ネタのほとんどはただの思い付き。説明?ああ、それは後からいくらでもつけられるから、大丈夫。そういう訓練はきちんと受けてきたから。なので、いきなり走り出したりいきなり止まったり、そんなんは日常茶飯事だったりします。

ニラに食い付く皆様は同類とみなしてよろしいでしょうか、先生?

2005年10月5日(水) 見えないもの≠存在しないもの

見えないからといって、それが存在しない、とは必ずしも言い切れない。
“存在する”ことを証明するのは容易だが、“存在しない”ことを証明するのは原理的に不可能である。
こんなこと、ある意味、当たり前のことなんだけれども。

2005年10月6日(木) コマ送り

やっぱり良いカットはコマ送りで観たいものです。
じっくりじっくり観ていくと、よくできた映像って細かい所まで神経が行き届いてる。
流して観てただけじゃ分からないような0.1秒オーダーの切り替えとか。
テレビだと、だいたい1秒に12コマとか24コマ、映画だと1秒60コマとかそれくらいのオーダーだから、ものすごい入れ込みようだ、考えてみれば。
そういう映像を作れるようになりたいものです。先はまだまだ長い。

2005年10月7日(金) 激眠

昨日午後7時就寝。
今朝午前5時30分起床。
あほみたいに眠くて、がっくりいきました。

2005年10月11日(火) 冷たい風

仙台は秋らしい秋もなく、このまま冬に突入してしまいそうな勢いです。ときおり風がものすごく冷たく感じます。大阪から戻ってもう2年半になりますが、いまだに「寒がりすぎです」と言われるくらい、こっちの急激な気温の変化にまだ体がついていっていません。

----

思い掛けない出来事があって、ふといろんなことを思い出してしまいました。

・・・・

ん、でもあんまりぐだぐだ言っても仕方ないので、こっちに書くのはやっぱりやめときます。

----

自分の感情を美化しないこと。
それは賞賛されるほど素晴らしいものじゃない。

2005年10月12日(水) 今年のクリスマスカード

毎年恒例になってきた感があるクリスマスカード企画でございますが、今年もやります。ええ、やりますとも。やるなと言われてもやりますとも。これが1年の締めくくりだもの。そのかわり年賀状は出さないのでよろしく。

----

なんか作ってるうちにだんだん楽しくなってきちゃって、絵柄、ちょっと増えそうです。とりあえず2種類は出来てて、あと1つか2つ、増やす予定。時間との兼ね合いもあるけど、あんまり増えるようだったら抽選式のセットプレゼントでもしてみようかな、とか思ってみたり。こればっかりはあくまで感謝企画だから、できればお金はからめたくないしねー。お金ってのはこういう風に使うもんだと思うわけで。自分のためでもあるし、同時に誰かのためにもなるし。

----

基本的に人に何かをあげたりするの、好きなのです。それが「商売っけがなさすぎる」とさんざん言われる所以なんだろうけれども。でもそういう性質なんだから仕方ない。だってさぁ、損得感情抜きで誰かが喜ぶところを見るのって嬉しいじゃない?酒はほとんどダメだけど酒の席はそんなに嫌いじゃなくて、なんでかってったら人が楽しんでる姿って、見ててやっぱり気持ち良いわけで。年中ふてくされたような顔してる自分がいうのもなんだけど、誰かが笑顔でいてくれるってのは良いものだと思う。「人間嫌いなんじゃないか?」とか言われることもあるけど、確かにそういう時期もあったけど、今は違う。人間そのものは大好きです。

2005年10月13日(木) 情感

人を撮るのは難しいと思う人です。
正直なところ、“ただの”美男美女だったらそこら中うようよしてる。
でも、彼ら彼女らは、一瞬目はひくけれども振り向いてみるとどんな顔だったかも覚えていないような、そんな美男美女だ。そういうのには、申し訳ないけれど、これっぽっちの興味も感じない。
彼ら彼女らには、決定的に欠けているものがある。

それが、“情感”。

人を撮るとき、自分が一番撮りたいと思うのは、その人の極めて内面的な部分だ。
レンズが捉えるのはあくまでも表層的なものだから、これは矛盾だと言える。
けれども、自分は「内面的なものは表に何かしらの形で必ず現れるものだ」と考える。
そういうものは見ていればなんとなく分かるようになる。
どんなにきれいな服装をしていても、どんなに化粧を施しても、醜い内面は表に現れるものだ。
表面を磨くのは、物理的なものだから誰にだって容易なことだ。
でも、内面はそうはいかない。
そしてそれが、“情感”となって表に現れてくる。

----

被写体がモノである場合、そのモノがもつ“情感”は自己の投影だと思う。
気分や感情によって同じモノが違うように見えるのはそのためだ。
だから、被写体がモノである場合、テクニックを磨く以前に、自分自身を磨く必要がある、と考える。
自分自身、そこまでできているかはかなり疑問なんだけれども。

----

“情感”を身にまとっている人はそんなにいない。
だから、人を撮るのは難しい。

2005年10月14日(金) それいけワーカホリック

いろいろとまたやることが増えてきて、「おれは管理職じゃねぇよ」とかぶちぶち言いながらですが、それでもそれなりに楽しく仕事してたりします。基本的に仕事好きな人です。「仕事と誕生日とどっちが大事だ!?」と問いつめられたらたぶん、迷わず「仕事」と答えそうな勢いです。そんなわけで日曜日は出勤確定。

仕事しにきてんだか遊びにきてんだかよく分からない人が半分くらいの職場ってなんか違うような気がしないでもないですが、やる気のない人は見ないことにする方向で決定したので、よろしく。

2005年10月17日(月) わけもなくハッピーな気分になってみよう

ここ一週間ばかりずーっと仕事のことばっかり考えてしまって、夢に見るほどひどい有り様だったので、それ相応の精神状態です。ぎすぎずざらざらしてる感じ。明らかに糖分が足りない状態だと自覚したので、帰り道、コンビニで糖分を物色してみました。

普通のチョコでも良かったんだけど、たまには何か珍しいものも良いかなーっと思って、「メンタルバランスチョコレートGABA」なるものを買ってみた。チョコ食ってリラックスした気分になるのは、チョコに含まれるGABAとかいう成分のおかげなんだそうで、じゃあそのGABAとやらを増量してみましょう、という極めて安易な発想の商品。そういう安易さがたまらん。

そんなわけでもそもそ食ってます。GABAがあろうがなかろうが、基本的にチョコ食ってればそれなりにハッピーな気分になれるので、それがGABAの効果なのかどうか、検証はできません。安上がりな幸せで失礼。

2005年10月18日(火) たまには絵とか写真とかの話をみっちりしたい

ここしばらく職場と家の往復ばかりで、微妙にフラストレーションがたまってます。
画集とか写真集とかをテーブルに広げて、対面でみっちりあれこれ話がしたい。
大阪んときはデザイン部署だったせいもあってか、先輩後輩交えて、「あ、これ良いよね〜」とか「ここをこうしたらもっと良くなるよね〜」とか、職場でもそういう話ができたんですが、今んところじゃそれは無理だ。「ここのパラメータがちょっといけてないよね〜」とか「このエネルギーだったらこういう反応かもしれないね〜」とか、それはちょっと微妙。つまらないわけじゃないんだけど、いや、むしろ面白がってるんだけど、それでも基本はデザイン屋さんなので、やっぱりフラストレーション。波動方程式も悪くはないけど、絵の話がしたい。写真の話がしたい。デザインの話がしたい。

欲求不満大爆発。

2005年10月19日(水) パジャマ子

朝の通勤途上、たまに見かける光景。
出勤途中であろうスーツ姿の父親の自転車にのせられた、パジャマのままのお子さん。
片平キャンパスの近くに保育所があって、たぶんそこに連れていっているんだろうと思われる。

母親と子供が一緒なのはまぁ普通に見かけるから素通りしてしまうんだけれど、父親と子供が一緒の光景ってなぜか微笑ましい。父親と子供が河原かなんかで戯れている光景をみるとなぜかぐっときてしまう。

男なんてな、どんなに偉ぶってふんぞり返ってみても、中身はいつまでたってもガキだから、子供と戯れてるくらいがちょうど良い、と思う今日この頃。でも男の子限定。

そんな父親になれたら楽しいだろうなぁ、とちらっと思ってみたけど、子供をもつ予定はこれっぽっちもないので却下。

2005年10月20日(木) 各種展示スケジュール

11月から1ヶ月おきにネタがあります。

11月26日、27日 デザインフェスタ ブース C496,497
12月末(期日はまだ未定) コラボるーと展
翌年1月17日〜22日 Editで個展の予定(まだ仮予約の段階)

いろいろあってぱっつんぱっつんな状況ですが、これを乗り切ったらちょっとは脱皮してることでしょう。つーか自分で自分の首をきりきりきりきり締め上げてるようなもんだと、ついさっき気付いた、けどそれは気付かなかったことにしておく。

2005年10月21日(金) 仕事

今日は計算屋さんはお休み。
絵描き屋さんのお仕事です。

2005年10月23日(日) 個展やりま〜す個展やりま〜す

2006年1月17日(火)〜22日(日)

リブリッジ・エディット
仙台市青葉区春日町5-27
(メディアテークの近く)

YusukeSato's GraphicWorks Exhibition
"L.M.0405"

----

思い立ったらすぐ行動しないと気が済まない、ある意味困った性質の人ですが、悩んでる暇があるくらいなら行動しなさいよ、と声を大にして言いたい、言いたい。それはさておいて、決めちゃったことは決めちゃったことなので、後はしんどかろうがしんどくなかろうが、行動するのみです。単純でしょ?

ともあれ、個展という形式で展示やるのは今回が初めてなので、微妙に緊張してます。「柄にもないこと言うな」とか言わないように。とにかく来てね。つーかむしろ来い。

2005年10月24日(月) 真摯であり続けること

ギャラリー使用の申込書の提出と、「こんな感じでやります」っていうので作品ファイルをもってeditのオーナーさんとちょろっと話をしました。ギャラリーの使用に関しては要項を渡されてそれっきりだし、そのまま郵便振り込みの用紙を渡されて「前金はいついつまで、全額はいついつまで」って感じで、そのあたりはほんと、うるさく言われることもなく、かえってこちらも楽でした。そういう意味でいうと、打ち合わせ自体は10分で終了。

----

販売はしないのか、と聞かれ、一応いつもの感じで「展示しているものに関しては販売は考えてません」の答えだったのだけれど、試みでも良いから、どんなに高くても良いから、試みに自分の作品に値段を付けてみたらどうか、というギャラリーサイドの提案。「売らない、というのは確かに個々の事情はあるだろうけれど、いつまでもそれを通していたらアマチュアリズムの現れとしか見られなくなってしまう。作品に対して真摯であるなら、値段をつけて価値を問うのもひとつの道ではないか」。たしかにそういう考え方もある。うむ。うちの最近の作るのはモノがでかいだけに、原価もけっこうかかるし、先方のやり方では「だいたい原価の3倍以上」が相場だという。ってことは、B1のあれは3〜4万てことか?B2だと2万くらいか?ん〜、とちょっと考えたけれど、値段をつけるだけならタダだし、そこからなにかしら生まれるものがあるなら、それはそれでありかもしれない、とC7でココアを飲みながらちらっと考えてみた。うん、それもありか。これまで展示したものそのものは売ったことがなくて、いつもポストカードサイズで150円とか200円とかで売っていたんだけれども、フェスタでもときどき「こっちのでかいのが欲しい」といわれることもあって、その辺りを考えると、販売やってみてもいいかも、試験的に。というわけで、今回の個展ではでかいの、販売する予定です。たぶん、そんなにびっくりするような値段にはならないと思います。だいたい3〜5万程度。A4のだったらもっとおさえて5000円とか。そんな感じ。

----

仙台は作家が根付かない街だとよく言われる。その中に住んでいる自分も、たしかにそう感じる。こちらが本気で作ったものに対するレスポンスがあまりに弱い。デザインフェスタに出したときと、仙台でグループ展やったときと、同じ作品を出しても、その落差に驚く。フェスタの方を長くやってたものだから、見にきてくれた人の反応ってあれくらいだろう、と思ったら仙台はそれがあまりにひどい。そこに不満を感じることも多々ある。けれども、仙台という街から作家が輩出されて東京なり大阪なりで活躍していることだって事実だ。そういう例はいくつか知ってる。
要は“仕掛け”の問題なんだと思う。自分はいけなかったんだけれど、こないだC7で3周年記念パーティーをやったとき、すごいお客さんの入り様だったと聞いた。桁からいったらちょっと少ないかもしれないけれど、それでも何かしら興味をもってそういう所に集まる人がいるんだ、ということそれ自体は決して悪い兆しではないと思う。こういうことを言ってると、東京なんかでクラブイベントやってる人からみたらほんと、馬鹿馬鹿しいくらいに次元の低い話になってしまうんだけれど、それが仙台という街の実情。

アート、イベントは作り手がいるだけでは成立しないものだ。作り手がいて、受け手がいて、その間に作品があって、相互のコミュニケーションが成立して初めて、そこに“出来事”としてのアートなりイベントなりが成立するものだと考える。そのコミュニケーションが、仙台ではつぶやき程度しか聞こえてこない。同世代で同じことを考えている人は、この街にはきっと、たくさんいるはずだ。

作品はモノではない。それは人と人をつなぐ、触媒のようなもの。それをきちんと、真摯に提示していくことが、この街には必要なことだと思う。そしてそれはたぶん、うちらの世代の仕事になるんだろう、きっと。

2005年10月25日(火) 頭の中

11月から始まる怒濤の展示3連発で頭の中がいっぱいです。
仕事がほとんど手につかない有り様です。困りましたね。

2005年10月26日(水) でかいのです。

素でびびりました。でかいです、B1。さすがに4枚もとりそろえてなかったので注文なんですが、一応1枚はもってかえりました。ええ、もってかえりましたとも。搬入のときとか、手持ちでいけるかとうか試すために。

結論:無理。

このでっかいの4点にB2が6点、その他A4が24点。これをかかえてチャリンコ、しかも仙台の1月じゃ無理です。チャリンコ搬入は却下です。おとなしくバスにしよう・・・

----

毎年恒例のクリスマスカード企画、ちょっと早いですが始めちゃいました。よろしく。
ついでにトップを個展用のDMにしておきました。そっちもよろしく。

2005年10月27日(木) 

若年性健忘症という言葉が脳裏をよぎる。

2005年10月28日(金) 人生のコンセプト

学生から社会人なりたての頃の間、個展てものすごい憧れでした。うわ、個展だってよ、すげー、よっぽどレベル高いんだろうな〜、な感じで。そんな人が三十路を手前にして個展やる、ってんだから人生分からんものです。ま、やろうと思えばなんだってできるってことなんだろうな。これまで生きてきて学んだこと。

「やろうと思ったことはよほどのことがない限り、どんなことだってできる。できないのは、ただやろうとしないだけのことだ」

----

なにがしたくて生きているのかさっぱり分からない人がときどきいます。あんた生きてて楽しいのか?と思ってしまう人がときどきいます。職場と家との往復のみ、休みの日はごろごろしながらテレビをずっと見てる、とりたてて趣味もなく、とりたてて夢中になれるものもない、そういう人。仕事っぷりをみてても、なんだかつまらなそうだ。

----

エロスパムとあなどるなかれ。ちらっと中身を見てすぐに削除してしまったので具体的な内容までは覚えてないけれど、概ねこんな内容のエロスパムが来てた。

「旦那が仕事で忙しくてかまってくれない。そのぶん収入は多いが、満たされない。会ってくれるのなら(その後は御想像にお任せします)、高額報酬する」

ま、ありきたりだけどな。つーかさ、それ、旦那が汗水たらして稼いできた金だろ?あんたの金じゃないだろ?んなこと考える前に仕事見つけるとか夢中になれる趣味を見つけるとか、そういう努力はしないんかね?ってエロスパムに突っ込みいれても仕方ないっちゃ仕方ないんだけれども、今考えてることとかぶるところがあったので、あえてさらしてみた。

----

よく、「自分でも何がしたいのか分からない」とか「本当の自分が分からない」とか、いい歳こいて自分探しだのなんだの、妙なことを言う人をまれに見かけますが、そういう人の胸ぐらつかんで猛烈に説教したい。あんたこれまで生きてきて、一体何をして、何を見て、何を聞いてきたんだ?あんた、20年も30年も生きてきて、自分の世界、自分の価値観も自分で決められないのか?好きなものや好きなことはないのか?やってて楽しいと思うことはないのか?つか、あんた、ほんとに“生きて”きたのか?エキサイトしてしまって失礼。

----

うちは、物心ついたころから絵を描いてた、というタイプではありません。高校の半ば頃から急に絵を始めた、ちょっと遠回りの人生です。それでも一応はそれなりのものを作っているという自信はそれなりにあるし、ここまで生きてきて、何はともあれ、作ることそのものは止められないだろうな、と諦め半分だったりする人間です。でも、何かを作ること自体は好きだし、それを取り上げられたら生きている意味がない。それほど、自分にとって重要なことなのです。表題に掲げたように、それがうちの“人生のコンセプト”。

----

たぶん、何がしたいのか分からないとかのたまう方々は、そういう“コンセプト”がないんじゃないのかな、と思います。“コンセプト”なんて大袈裟な言葉を使わなくても、「自分の生きている理由」とか、「自分の存在価値」とか、ああ、そっちの方がもっと大袈裟か。なんかニュアンス的に伝われば良いな、と思いつつ、そんな感じのことです。もしかしたら、何がしたいのか見つけられない人に、そんなことを言うのはある意味、酷なことなのかもしれない。今は見つけられなくても、せめて見つける努力くらいはしようよ、と言葉をやわらげてみる。

----

でもさ、一応は問いかけてみたいじゃない。

あなたが生きている理由ってなんですか?
あなたが存在していることの価値ってなんですか?
これだけは絶対にゆずれない、という確固としたものはもっていますか?
もしなくても、それを作り上げる努力をしていますか?

----

人生は長い。
じっくり考えよう。
でも、考えるだけで行動しないのは最悪だ。

2005年10月31日(月) 情報子

毎月恒例、M氏ご来仙。この人と話をするのが本当に楽しみです。すごくいろんな事を知っていて教えられることもあるし、たとえ知らないことでも、「それとあれって似てるよね」って感じでどんどん話が広がっていく。そうやって物事の関連性とか類似性がぱっと突然みえる瞬間があって、そういう会話っていうのはなかなか得難いものだと思います。

----

“デザイナーズ・チャイルド”という言葉を、もしかしたら知っている方もいらっしゃるかもしれません。ヒトの遺伝子はかなりの部分が解読されつつあって、将来的には遺伝子操作によって望み通りの容姿や能力をもった子供を作れるだろう、という話。

----

そもそもの発端は、日本人の体型はたとえば昭和初期に比べるとすらっとした長身の、どちらかというと欧米の人種に近付いてきてるよね、ということから。人の体型って必ずしも遺伝的なものだけじゃなくて、畳の上に正座の生活から、椅子にテーブルの生活になればそれは変わって当然だし、食生活の変化も体型に影響する。だから、進化論の流れでいうと「獲得形質は遺伝しない」のは確かなのかもしれないけれど、必ずしも遺伝だけが重要なんじゃなくて、生活環境だって大きく影響するんじゃないか。かつてのヨーロッパなんかでは、「音楽一族」とか「学者一族」みたいに、ある特定の能力が突出した人間を輩出しやすい血族というのは確かに存在しただろう。でもそれって、大本の誰かがいて、そういう環境で育てば、それは音楽に親しむのは当然だし、学問に親しむのは当然。それに加えて、今のように家族が分散して生活するような感じじゃなく、一族はひとつの大きな屋敷で暮らしていることの方が多いだろうから、そういうある意味閉鎖的な環境だったらその影響はより大きなものとなるだろう。でも、現代の生活を眺めてみると、核家族化が進み、学校やなんかで外に出る機会が多いから、そこからのいろんなインプットによって、その人が形成されるはずだ。ということは、たとえこれまで画家だの学者だのを一切輩出してこなかった家系でも、環境さえ整えば、そういう能力を「後天的に」獲得することは可能だろう。さらに考えをすすめると、そういう人間が突然変異的に出てきたら、そこから新しい血の流れが生まれる可能性だってある。だから、遺伝子って、物理的な影響力はあるだろうけれど、もしかしたら精神的な部分、内的な部分に対しては、そんなにそんなに影響しないんじゃないだろうか?だから、仮に“デザイナーズ・チャイルド”としてある能力を遺伝子に書き込んだとしても、それを生かす環境におかれなければ、例えばIQ200の遺伝子をもったとしても全く勉強しなかったりしたとしたら、その遺伝子は何の意味ももたないんじゃないだろうか?

----

そこで出てきたのが、“情報子”という考え方。DNAという物質が伝えるものは、あくまでも生物種としての特徴だけだと考える。だから、後天的に得られた、たとえば整形した顔とか、そういう“獲得形質”は確かに残らないだろうと考えても良い。でも、外からインプットされた“情報”は、ある意味“獲得形質”ではあるけれど、それは生活環境に影響を及ぼすもので、環境に影響を与える、という意味で言えばその人の人格なり能力なりの形成に影響するわけで、ということは、“情報子”という概念からすると、「獲得形質は遺伝する」と言うことも可能だろうと思われる。

----

少し前でしたが、韓国だかどこだかの国で7才の男の子が大学に入学したそうです。その子がインタビューで「シュレディンガー方程式を勉強したい」とのたもうておりました。なにを小生意気な、と最初は思ったんですが、でも考えてみたら、シュレディンガー方程式なんてものは単にロジックさえ分かれば時間はかかっても手計算でだって解くことは可能だし、ロジックなんてものは極めて純粋でそこに人生の機微があるわけでもなんでもないから、7才の子供に理解できないことはない。要はこの男の子の演算処理能力が他より突出しているだけであって、それ意外に驚くべきことはなにもない。ただ心配なのは、この子がほとんど社会的な経験も積まないままにいきなり「大学」という特殊な環境に放り込まれたとき、きちんとそれに適応できるかどうか、ということ。ま、かなり特殊な子だろうから、大学側も気を遣って世話を焼くんだろうけれど。

----

理系の学問ってのは純粋にロジックの問題だから、それがクリアできるなら、とび級したってなんの問題もないと思う。でも、それが哲学だとしたらどうだろう?文学だとしたらどうだろう?ハイデガーの哲学の背景にはユダヤ人やナチスや強制収容所がある。同じように、レヴィナスの哲学の背景にも、同じものがある。でも、両者の哲学には決定的な違いがある。ハイデガーは強制収容所を経験せず、レヴィナスは強制収容所を経験した。その経験の差を鑑みてはじめて、ハイデガーとレヴィナスの思想の違いを理解することができる。思想を生み出す原動力はあくまでも経験だ。だから、7才の子供にハイデガーを理解しろ、といってもそれは無理な話。

※だからってうちがハイデガー哲学を理解できてるか、っつーのは全く別の話。思想や哲学ってものは、物理法則のように決まったものではなくて、ずっとずっと向こうにある、それぞれの個人が持つ“答え”への道標のようなものだろうと思います。哲学そのものは、その哲学を生み出した個人にとっては“答え”でも、別の人間からしたら、ヒント程度のものでしかないと考えます。だから、仮にハイデガーが理解できなくても、それはその人が歩んでいる道にはそぐわない道標なんだろう、とそういう認識で良いような感じもしないでもないです。

----

逆に、経験の差が生み出すものの顕著な例として、戦時中の特攻隊に選ばれた15、6才の少年達。彼等は、確かにその年齢相応の社会経験しかもたないかもしれない。けれども、生と死のぎりぎりの場面に直面した彼等の残した文章は、とてもとても深い。そういうものを今の15、6才の少年達に求めたとしても、たぶん無理だろうと思う。

----

環境によって人は変わりうる。特に、確たる自己が形成されていない若いうちは、それがかなりはっきりした形で現れてくる。そしてそういう経験の上にあって、ようやく“個人”が確立してくるんだけれども、その“個”だって、どこまで揺るぎないものかと問われれば、ちょっと危ういのかもしれない。生きている以上は、過去の経験の上に新しい経験がどんどん積み重なってくるわけだから、全く変わらないと言えば、それは嘘になるだろう。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

sasuke@rb3.so-net.ne.jp
Akiary v.0.51