日々の泡粒
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2005年12月1日(木) il y a(作品用メモ)
「あたりいちめんに広がる避けようもない無名の実存のざわめきは、引き裂こうにも引き裂けない。そのことはとりわけ、眠りが私たちの求めをかすかに逃れ去るそんな時に明らかになる。もはや夜通し見張るべきものなどないときに、目醒めている理由など何もないのに夜通し眠らずにいる。すると、現前という裸の事実が圧迫する。ひとには存在の義務がある、存在する義務があるのだと。ひとはあらゆる対象やあらゆる内容から離脱してはいるが、それでも現前がある。無の背後に浮かび上がるこの現前は、一個の存在でもなければ、空を切る意識の作用のなせるものでもなく、事物や意識をともどもに抱擁する<ある>という普遍の事実なのだ。」(『実存から実存者へ』西谷修訳)
「こうして私たちは、<ある>という非人称的な出来事のなかに、意識の概念ではなく、意識が融即する<目醒め>の概念を導入する。意識とはまさしく、私たちが不眠のなかで自らを非人称化しながら到達する、あの存在からの避難所なのだ。
夜の目醒めは無名である。不眠のうちには、夜に対する私の警戒があるのではなく、目醒めているのは夜自身なのだ。<それ>が目醒めている。この無名の目醒めにおいて私は存在にくまなく曝されているのだが、この目醒めのなかで、私の不眠を満たしているあらゆる思考は何ものでもない無に宙吊りになっている。その思考には支えがない。いってみれば私は、ある無名の思考の主体であるよりはむしろその対象なのだ。」(同上)
「私たちの求めてきたのは、実詞の出現そのものなのだ。そしてこの実詞の出現を指示するために私たちは、哲学史において、動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<イポスターゼ=実詞化>という言葉を再び採用することにした。<イポスターゼ>、実詞の出現、それは単に新しい文法的カテゴリーの出現というだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の基底の上に存在者が立ち現れる。実詞化によって、無名の存在は<ある>としての性格を失う。存在者―<存在するもの>―は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属辞とし、その運命に支配を及ぼす。存在を引き受けるだれかがいる。そしてその存在は今やそのだれかの存在なのだ。」(同上)
2005年12月2日(金) 絶望と希望の淡い狭間
私はあなたの痛みを“私の痛み”として想像することができる。だが、“あなたの痛み”そのものは想像できない。
私はあなたの喜びを“私の喜び”として想像することができる。だが、“あなたの喜び”そのものは想像できない。
あなたの感じたもの、あなたの見たもの、あなたの聞いたものすべて、私は“私のもの”として体験し直すことができる。けれども、“あなたの体験そのもの”を、私は体験し直すことはできない。決して、永遠に。
あなたは私にとって、永遠に一個の謎である。
私はあなたを決して理解しえないだろう、と私は絶望を感じる。
同時に、あなたはあなたであり、誰もそれを変えることはできない、と私は希望を感じる。
その狭間はほんのわずかでしかない。
いつ消えてもおかしくない、淡い狭間である。
絶望と希望は、私とあなたの関係性において、常に同時に存在しうるのである。
そのゆらぎの中にあって、私は弱く小さな魚である。
強い流れに逆らえず、希望と絶望をいきつ戻りつする小さな魚である。
私は私が弱いということを知っている。
であるからこそ、あえて逆らわず、ときに希望を深く愛し、ときに絶望を深く愛する。
絶望を否定することは、希望を求めることと等価ではない。むしろ逆である。
絶望を否定することはすなわち、希望を否定することである。
なぜなら、両者はともにあって初めて、その存在意義をもつものだから。
私は絶望を否定しない。むしろ、それを受け入れる。
それは私自身であり、あなた自身であり、私とあなたの間にあるものだからである。
2005年12月5日(月) 世界の果て
ビッグバン宇宙論によれば、世界が誕生した瞬間、つまり“時間ゼロ”において、体積0、エネルギー無限大という状況が生まれ、数学的に破綻をきたしてしまう。それを“特異点”という。その問題に数学的に解を与えたのが、たしかホーキング博士だったと思う。ビッグバン宇宙論を直線的に考える限り、“特異点”の問題は回避できない。従って、直線モデルは廃棄し、球状モデルを考える。球であれば、どの点をとっても面は同じだから、“特異点”は発生しないだろう、と。実はこのあたり、なんだかよく分かっていなくて、「ふぅん、そういうもんなんかね」としか思っていない。
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世界の果てには何があるんだろう、とふと考えることがある。
もしかしたら、ずっとずっと向こうに、“宇宙の端”というべき地点があるのかもしれない。
では、その端を一歩乗り越えたら、そこには何があるのか、という問いに、一体誰が答えられよう?
仮定は可能だが、それらはあくまでも仮定に過ぎない。仮定と現実とを混同してはならない。
ここでひとつ、違った見方を考える。
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例えば水素原子を考えてみよう。
水素原子はひとまずのところ、一個の陽子と一個の電子から成り立っていると考えられている。
一個の電子は陽子のもつ力に束縛され、原子核のある一定範囲内を、いわば太陽の周囲を公転する惑星のように回っているものと考えられる。
水素原子単体で考えた場合、この一個の電子にとって、世界の果てとは陽子の束縛力が及ぶ範囲内を言うものと、ひとまずは考えても良いと思う。
しかし、現実的に水素原子がそれ単体で存在することはほとんどあり得ない。通常は水素分子の形で存在するか、何かしらの原子と反応して、別の状態で存在する。
そうなると、もともとあった水素原子がもつ陽子の束縛力の範囲は変更され、オリジナルの電子の行動範囲は極めて大きく広がることになる。例えば水素分子の状態であるばあい、陽子二個分の範囲に広がるわけであるから、電子にとっての世界は一挙に広がる。あるいは、酸化物中に溶けた水素原子は酸素原子によって電子を奪われ、その電子はある意味で“自由電子”的な振るまいを見せる。つまり、ほんのわずかしか無かった水素原子における電子の行動範囲にくらべると、酸化物中という極めて広大な世界に、電子は投げ出されることになる。
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果てだと思っていたことが、実は果てなどではなかった、ということはざらにあるものだ。
新しい世界をふと目の当たりにしたとき、己の存在の卑小さと見識の狭さに愕然としながらも、やがてその世界の広さに順応してゆく。それを繰り返し繰り返し体験していくと、「本当に世界に果てなどあるのだろうか?」と考えてしまう。
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おそらく、一人の人間にとって、世界はあまりに広すぎる。
果てに辿り着くずっとずっと前に、時間が切れてしまう。
水素原子から剥がされた一個の電子と同じだ。
だから、いずれ“果て”など考えなくなってしまう。
自分の生活、自分の環境、自分の生に、やがて充足する。
それが普通の感覚だ。本当にそう思う。
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だからこそ、ここで敢えて問いたいと思うのだ。
“世界の果てとは一体なにものか?”と。
“いま我々が見ている世界が本当にすべてなのか?”と。
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世界は認識されるものであるが、同時に認識によって世界は画定される。
“定義する”という行為によって、世界は寸断されるのである。
従って、“果て”を画定した瞬間、そこに“果て”が生まれる。本来ありえない果てが、そこに現出する。
それは、自ら系を閉じることと同義である。閉じた系は己のエネルギーを燃やし尽し、やがて死滅する。
しかし、それは“果て”ではない。一部である。寸断された世界の一部に過ぎない。
世界はもっとずっと広いものだ。人の認識の及ばぬほど、広いものだ。
私はその広さが知りたい。人の認識がどこまで及ぶのか、確かめてみたい。
そのためにも、あらゆる感覚を研ぎすまそう。
“定義”によって寸断される以前の世界を、この身で感じるために。
2005年12月6日(火) 昇華と凝固、あるいは後悔に関する心理学的知見
「行動したことによって生じた後悔よりも、行動しなかったことによって生じた後悔の方がより強く残る」
たしか比較的最近の社会心理学者がいってたこと。考えてみればある意味、当然のことである。例えばある仕事に失敗してしまったとき、確かに後悔はする。けれども、失敗の原因を考え、再度挑戦すれば、後悔は帳消しにすることが可能だ。何らかの原因で手をつけなかった仕事、もしかしたら失敗したかもしれない、あるいは成功したかもしれない、なぜあのときやらなかったのか、という後悔は、長く尾をひいてしまう。もちろん、ここには個人差が生じるだろうけれども、上のように書いたからには、統計的に有意な結果が得られたのだろう。考えてみれば当然のことに対して、統計的な有意差を発見し、そのメカニズムを解明するのが、心理学の仕事である。
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「肉体を昇華し、精神を凝固せよ」
錬金術の格言である。ユングの登場以降、錬金術の作業行程はしばしば、心理療法のプロセスに比せられるようになる。ユング派の心理療法は「あまりに神秘主義的である」とときに批判されるが、その批判はあまり建設的ではないと思われる。心理療法の際にとられる手法は必ずしも一通りではないし、フロイト派の療法が合う人もいればユング派の療法が合う人もいる。そのいずれも合わず、異なった手法をとる人もいる。フロイトもユングも、人の心の有り様を確かに見抜いてはいるが、それはある意味で極めて一面的な物事の見方でしかない。人のこころの有り様は多様であり、すべての人に対してひとつの方法論が有効であるとは限らないのである。
錬金術は「卑なるものから貴なるものを取り出す」作業であると、ひとまずのところ言っておく。第一資料(プリママテリア)と呼ばれる混沌とした状態から、貴金属である金を生み出す作業である。醜い毒蛙の頭には宝石が埋め込んである、という言い伝えからも分かるように、卑なるものには貴なるものが内在している、と当時は考えられていた。毒蛙から宝石を取り出すには、衣たる毒蛙の肉体を昇華し、そこから宝石を取り出せば良い。つまり、物質の卑なる部分、肉体を昇華させ、貴なる本質、精神を凝固させよ、ということである。
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以下、『心の解剖学〜錬金術的セラピー原論〜』(E.F.エディンガー著)より。
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昇華とは上昇であり、即物的な地上存在、その具体的、個人的な事柄とのしがらみから離れてその上に我々を引き揚げる。高く上れば上るほど、見方はより包括的にはなるものの、現実の生活からは隔たって、自分の知覚するものに対して影響を及ぼすことが出来なくなる。我々は高尚にはなるけれど、無能な傍観者にもなる。天国は、プラトンの永遠の形、宇宙的なもの、元型的なイメージの住処である。それゆえ、夢や人生の状況を元型的な視点から解釈するならば、それは常に昇華を促すことになる。
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昇華するばかりでは何も残らない。そこから凝固されるものがあってこそ、初めて昇華のプロセスが意味を持つのである。前に後悔について述べた。失敗をばねにして前へ前へと進むことは、とても良いことだ。それを非難するいわれはどこにもない。しかし、前へ進む、ということはつまるところ、「昇華」である。一度立ち止まり、失敗の原因を確かめ、同じ失敗をしないよう考える「凝固」のプロセスがなければ、この失敗に意味はない。常に前向き、天真爛漫な人のもつ危うさは、この「凝固」のプロセスがなく、ひたすら「昇華」を続けていることに端を発しているのだろう、と考える。
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後悔することも、落ち込むことも、決して悪いことではない。それは「凝固」のプロセスである。だから、後悔も心の落ち込みも、じっくりと味わうと良い。その先に、何かが昇華された心性が明らかとなるはずである。
2005年12月7日(水) Yes
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(旧約聖書 創世記1:31)
アダムとエヴァは善悪を知る知恵の実を蛇に唆されて食べ、エデンを追放される。カインは怒りにまかせて弟アベルを殺し、流浪の身となる。堕落した人々を洗い流すための洪水を起こし、天に届かんとする塔を崩した。それでも造物主たる神は、世界に対して“Yes”と答えたのである。
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キリスト教のもっとも根源的なところは、「罪と許し」に集約される、と考える。この場合の「罪」とは、たとえば盗みを働いたであるとか、人を殺したであるとか、そういう次元での話ではない。もっと根源的な、生きていること、人間であることそのものに端を発する罪である。それは、人間であることそのものが罪であるが故に、人間である以上、何をしようと償えるものではない。それに対して、神は“Yes”と答え、許すのである。それでもその「許し」が分からぬ人々のため、イエスを遣わし、許しのための生け贄として十字架にかけ、三日後に復活して「許し」が確かにもたらされていることを知らしめるのである。この「罪と許し」が、旧約新約の聖書の根底を真直ぐに貫く、もっとも根本的ないわば“原理”であると、考える。
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何度も書いたかもしれないけれど、私は信仰をもたない。たまに「クリスチャンでもないのにどうしてそんなに詳しいんですか?」と言われることがあるが、理解することと信仰することとは、こと宗教に関しては混同されがちであるが、実は全くの別物だ。「信じる」とは心の作用であり、「理解する」とは知の作用である。心は温度をもつが、知は温度をもたない。知が温度を持てばそれは「思想」となり、ときに思想は信仰の対象となる。温度をもった知は、取り扱いに注意しなければならない。知は冷たくあるべきである。そして同時に、しなやかであるべきである。少なくとも私はそう考える。
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世界に対して人が“Yes”と答えるのは、決してたやすいことではない。辛いこともあろうし悲しいこともあろう。落ち込んでふさぎこむ日もあろうし、周りに八つ当たりしてつばをはきかけたくなるほど理不尽に振り回される日もあろう。それは生きていれば当然の心性である。何も恥ずべきことではない。もし顔をふせ、恥じ入るとするなら、その背後になにか後ろめたい感情がある証拠である。その後ろめたさですら、あって当然の心性なのである。
2005年12月8日(木) 作品について
お祭りが終わって、いろいろな感想なり意見なりを聞いて、それを自分なりに咀嚼した上で、今後の方向性を見定めるためにも、自分がこれまで作ってきたものについてあれこれ考えてみた。
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こないだのフェスタに出した"Angelic Alchemy"の制作意図とかそういうのについてはすでに書いたので、ここでは繰り返さない。むしろ、2年前に初めて作った一連の作品から、前々回の"Kaleidoscope"、前回の"Sealed Lights"、今回の"Angelic Alchemy"という流れについて、ちょっと考えてみたい。
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こないだのフェスタで2年振りにお会いしたK女史がちらりともらしていた言葉であるが、「時代の2、3年先をいっちゃってる感じがする」。今がどういう時代で、2、3年先がどうなっているかなんて分からないので、いまいちぴんとくることではないのだが(失礼)、「どういうカテゴリにくくって良いのかわからない」という点に関しては、自分でもそう思う。便宜上「デジタルコラージュ」という言葉を冠してはいるけれど、正直なところ、いわゆる“コラージュ”ではない。写真その他の素材を組み合わせて作り上げているので、技法上はコラージュなのであるが、元の写真のイメージがほとんど残らないくらいに加工しているから、出来上がりは「コラージュ」とはやや異なったカテゴリのものである。フェスタでとある男性が「いったい何が起こってるんだ!?」と足を止めてじっくりと眺めていった。そういう反応が、こちらがもっとも意図したところであるので、狙ったところにストライクしていった感はある。
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やはり、見ていってくださる方々の大半は「どうやって作っているのか」と技術的な部分に興味を示すようだ。写真を5、60枚、重ねに重ねてイメージを煮詰めていく、というと、「普通はそこまでしない」と言う。でもここでちょっと考えてみたい。「普通はそこまでしない」と言うが、4、5枚の断片的なイメージをちょろっと組み合わせて“普通の”コラージュを作ったところで、何が面白いだろう?マルセル・デュシャンが既成の便器を「泉」と題して展示したように、ジョン・ケージがまったく演奏しない無音の曲を「4分33秒」と題して演奏(?)したように、既成の技法、既成の価値観の枠組みは乗り越えられてしかるべきであると考える。特に、デザインフェスタのような場では、ありきたりなものはつまらないだけだ。新しいもの、これまで誰も見たことも想像したこともないようなものを、確信犯的に提示する場だと、自分は考える。
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今回の"Angelic Alchemy"で、ひとつのスタイルは確立されたと考える。次に進むべきところは、その確立されたスタイルを破壊した先である。確立されたものはその時点ですでに“既製品”であり、その先にはもはや“複製”しかない。“複製”には新しさがない。新しさを求めるのならば、確立されたものを破壊しなければならない。破壊の次に訪れるのは、“創造”である。
2005年12月9日(金) そろそろこんな時期ですね。
というわけで、それっぽい写真をひっぱりだしてトップにさらしてみた。
もうかれこれ4年くらい前の写真。写真始めて1年くらいして撮ったものだったと記憶してる。
懐かしい。大阪の南港でやってたイベント。まわりはカップルだの親子連れだの、そんなんばっかの中、ひとりカメラ抱えて駆け回ってたんだよなぁ。イベントの規模自体はそんなに大きくなかったんだけど、細かいとこまで作りこんであって、仙台のページェントよかずっと良かった。ページェントはさ、ほら、基本的に木に豆電球ごっそり付けてるだけだし。期待していくと意外と肩透かしなんだよねぇ。一昨年生まれて初めてちゃんと見て(詳細は突っ込み厳禁)、なんだ、こんなもんかと、うっかり思っちまいましたよ、ええ。
というわけなのでオチはない。そんなん期待するな。
2005年12月9日(金) 仕事に対して真剣なのはそんなに可笑しいことか?
いい加減、頭にきた。
こっちは思いっきり真剣に仕事やっとんのやぞ?
お金もらってるわけだし、先方も期待してるわけやから、真剣にやるのは当然やろ?
それを指差して茶化すって、どういうことやねん?
あんたら、いつも「仕事増えて大変だ、しんどいしんどい」言うてるけどな、1つ2つの仕事でしんどい言うな。そんなんしんどいうちに入らんわ。どんだけ楽すりゃ気が済む?それで一著前にゼニだけもろて、なに偉そうにしとんねん。
ふざけんのもたいがいにしいや。
2005年12月9日(金) 出る杭になってみろ
ああん?
打たれるくらいの出る杭になってみろよ。
なってみろよ、なれるもんならな。
身内には偉そうな口きいてさ、外からちょっと言われると急に泣き出したりしやがってさ。
ふざけんな。誰がそのしりぬぐいしてると思ってんだ。
叩かれるのが怖いだけなんだろ?
もしかして怒られたことねーんじゃねーの?
間違ったことして人に殴られたことねーのか?
甘えんな。
4、5人で集まって陰でこそこそしてんな。
ひとりで正面から戦ってみろよ。
できるか?できるんならやってみろ。ほら、やってみろよ。
できないんなら幼稚園にでもすっこんでな。
2005年12月9日(金) やりすぎた
あんまり頭にきたもんで、ちょっときつすぎた。
でも消さない。謝らないよ。間違ったことは言ってないつもりだもの。
激怒すると関西弁がうっかり出ちまいます。
別に抑えてるわけじゃないんだけれど、底の方でさ、ほら、分かるでしょ?
とりあえずさ、仕事くらいはちゃんとしようよ。
ろくに仕事もできないであーだこーだ言うのはなんか違うと思うしさ。
職場は仕事をするためにあるんであって、遊びにくる場所じゃないんだしさ。
世間話は外でしようよ。そういうのってあまりにも常識すぎて、言うのも馬鹿馬鹿しいけどさ。
文句があるならいつでも受けて立ちます。
かかってこいや。
2005年12月12日(月) 神話の死
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:3)
敬虔なキリスト教徒は、まさにこの通りであったと考えるだろう。一方で、多くの日本人は「そんなことありえない」と端から否定するだろう。しかし、私は思うのだ。どちらの態度も、神話を殺している、と。
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世界各地には、古代、様々な神話が語られた。世界が造られ、人を含む生き物が造られ、時に神々が争い、神と人が争い、人と人が争い、そして今の世界と時代に至る、創世の神話である。神話はそれぞれの人々の来歴を語る、歴史物語りである。ただのおとぎ話でもないし、ただの歴史的事実でもない。おとぎ話であるなら世界を造る必要はないし、歴史的事実であるならそこまで手を広げる必要もない。それでも、神話は生まれた。なぜか?人々は、自らの出自を欲し、それを神話という形にまとめあげ、自らをある種の寓話として語ったのである。
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「神は存在するのか?」
という問いに対して、数多くの神学者、哲学者が挑み、それぞれの解答を提示した。神の存在は証明できるとした者もあれば、神の存在は証明できない、とした者もいる。しかし、私は神の存在は証明すべきではない、と考える。神を生かすのも殺すのも、人間であるからだ。そして、現代に生きる多くの人たちは、自らの手で神を殺している。それは神話を殺すのと同様である。
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繰り返すが、神話はある種の寓話である。世界の有り様と自らの来歴を指し示すものである。だから、それを単純に事実と受け止めることも、論理的な矛盾があるとして否定することも、共に過った態度である、と私は考える。神話にはある一定の歴史的事実が含まれる。
もう随分前のことになろうが、中東でバベルの塔“らしき”遺跡が発掘されたと、ニュースで報じられたことがある。聖書考古学の立場からすれば、まさに狂喜乱舞する発見であったろうと考える。しかし、それが本当にバベルの塔であり、神が人々を散らし、言葉を撹乱したことの直接の証明にはならない。
神話に一定の歴史的事実が含まれる、というのはこういうことである。人の想像力には限界がある。ある説によれば、「人は見たもの以上のことは想像できない」そうである。その立場にたつと、天にも届かんとする塔を築こうとしたことは歴史的事実であろうと考えられる。遺跡が発掘された以上、それを見逃すわけにはいかない。その遺跡にまつわるいくつかの歴史的事実と、言語が多様であることの説明のため、「バベルの塔」というひとつの寓話が生まれた、と考える方が、より自然である。
したがって、バベルの塔が創世記の記述通りであると考えるのも、そんなことはありえないと否定するのも、ともに過っていると、私は考えるのである。前者は論理を殺し、後者は歴史を殺している。そして「バベルの塔」の寓話をともに過った態度で見ている、という点で、両者は神話を殺しているのである。
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私の興味の対象は「世界」である。そして願わくば、「世界」そのものを、自分の言葉(この場合の言葉は必ずしも言語そのものを指すわけではない)で記述し直したいと考える。それが可能か不可能かは、問題ではない。そのために行動することが、より重要である。
私のいう世界とは、実体として在る世界であると同時に、認識されたものとしての世界である。それは、モノであると同時にココロである。認識とは知と心の作用だからである。世界は実体として存在し、認識された心象として存在する。その両面を指して、私は総体としての「世界」と呼ぶ。私が物理法則とともに神話に興味を抱くのは、物理法則が実体としての世界を記述しており、神話が心象としての世界を記述しているからである。
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世界の有り様は一面的では決してない。それは極めて多面的であり、どれ一つ欠けても、本質を見失う。だから、神話を殺してはならない、と私は考える。
2005年12月13日(火) 心地よい職場
静かで変なにおいのしない職場って良いものです。
仕事に集中できて、これこそ仕事をする場です。
この状態が続いてほしいものですが、長続きすることは大して期待してません。
2005年12月15日(木) 障壁
私は私にとって、永遠に他者である。
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私の身長は158cm、体重は58kg、血液型はO型、生年月日は1977年10月16日。平日は朝6時に起床し、小便をし、パンを1枚とコーヒーを一杯飲んでから出勤する。休日はおおむね8〜9時に起床し、11時に朝食兼昼食を食う。結婚歴、離婚歴はなし。東北大学文学部を卒業後、大阪の印刷会社に勤め、2年と9ヶ月後に退職、途中短期のアルバイトをこなし、現在は東北大学大学院工学研究科で技術補佐員の職に就いている。年に2回、デザインフェスタに出展しているが、その時の状況に応じては出展できないこともある。2006年1月に個展を行う。煙草は1日に10〜20本、多いときは2箱消費する。一時期禁煙していたこともあるが、半年でやめた。
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以上が、私に関する客観的な、間違いようのない事実である。これらの事実を、私はなんのためらいもなく、事実として、記述することができる。しかし、「私はどのような人間であるか?」「私はどのような性格、性向をもっているか?」等について、私は記述することをためらう。なぜなら、それらは人によって異なった印象をもたらすものであり、ときに極めて客観性を欠くからである。
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恣意的な理解であれば、私は私を記述することができる。だが、私の恣意的な部分に関して、私は客観的になることができない。私は私を理解しようと努め、それらを記述しようと努めるが、その記述が私の恣意的な理解の範疇である以上、私の私に対する理解は私のあなたに対する理解と大きな違いはない。私の理解が私の恣意的な言葉で語られる以上、あなたがあなたの恣意的な言葉で私を語るのと同じだからである。従って、私にとってのあなたと同様に、私にとって私は永遠に他者なのである。
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しかしそれでも、私があなたを理解しようと努めるように、私は私を理解しようと努める。理解できない、という結論がたとえ分かっていたとしても、私は理解しようと努める。そして、理解したことを言葉にしようと努める。それが、私にとって他者であるあなたへの私の態度である。だから、私もあなたに対して理解し記述しようと努めることを求める。その相互作用が、「人間関係」といわれるものであると、私は恣意的にであれ、理解している。
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あなたが理解に努めれば努めるほど、私は私の周囲に障壁を築く。私があなたにとって永遠に他者であることができるよう、私は障壁を築く。その障壁を乗り越えてみせよ、と私はあなたを挑発する。その障壁とは言葉である。そして、私の言葉は迷宮である。私の周囲に張り巡らされた障壁は、その内に迷宮をはらんでいる。
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さあ、乗り越えてみせよ。
あなたが近付けば近付くほど、私は遠ざかるだろう。
2005年12月16日(金) 常識
内部の常識は社会的規範から照らして、非常識であることがままある。
心せよ。
2005年12月17日(土) 誘惑
誘惑=誘い、惑わす
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現代言語論には、「誘惑論」という立場がある。古い言語論は、「言語そのもの」を対象としており、言語が「聞かれるもの、読まれるもの」として理解されてきた。それはひとつの立場であり、言語論に豊かな実りをもたらしたことは否定しない。しかし、言語の有り様は極めて多様で複雑である。従来の立場は言語に対して受動的であったが、それでは一面的に過ぎるのではないか、という批判から、言語に対して能動的である「私」という立場にたつ者があらわれるようになった。それが、「誘惑論」である。
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言葉は「私」が理解するものである。同時に、「私」が「あなた」に働きかけるものでもある。「私」は言葉によって「あなた」とコミュニケートする。それが対話であり、教示であり、ときに誘惑である。誘惑論とはすなわち、「誘惑する主体としての私」を軸に据えた、いわば能動的言語論ともいえるものである。
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私はあなたを誘惑する。なぜか。コミュニケーションは単一方向のベクトルではないからである。誘惑し、あなたの関心のベクトルをこちらに向ける。私のあなたに向けた最初の発語は単一方向のベクトルであるが、私の誘惑があなたの関心をこちらに向けることができたとき、ベクトルは双方向的となる。そこに対話が発生し、コミュニケーションが成立する。対話に先行して、私はあなたを、私の言葉によって、誘惑するのである。
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この視点にたって「対話」というものを改めて観察してみると、それはすでに決められた場で発生している既成事実ではなく、私とあなたによる、「対話」という場そのものの生成過程であるとみることができる。してみると、「対話」というものは実にエキサイティングではないか。
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私は誘惑者である。
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それは必ずしも、言葉に限ったことではない。私においては、作品を媒介として、あなたを誘惑するのである。私は、作品はそれ単独では意味をなさず、作り手である私と、見手であるあなたと、なんらかの関係が成立して初めて意味をなすものであると考える。だから私は、自己満足のために作品を作ることはもうしない。自己満足では、あなたを誘惑できないからだ。そのために、私は私の作る作品に謎をもたせる。あなたはその謎に頭を悩ませるだろう。ときには、私に解答を求めるかもしれない。そしてそこに、私とあなたの「関係」という場が現出するのである。
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私は謎をかける。それは、あなたへの挑発であり、誘惑なのである。
2005年12月19日(月) 順位
現段階での優先順位。
1.制作
2.仕事
3.甘いもの
甘いものに勝てる自信があるなら、かかってきなさい。
2005年12月20日(火) 総括
そろそろ今年も終わりに近い頃合だし、この1年、ちょっと振り返ってみても良いかな、という感じ。ま、月末イベントと年明け個展があるので、まだ早いっちゃ早い気もしないでもないけれど。
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今年1年で一番大きかったのは、何をおいても"Sealed Lights"と"Angelic Alchemy"のでかい連作につきる。他にちまちましたものも作ってはいたけれど、今年1年で作ったトータルの作品数でいえば、たぶんこれまでで一番少ない。それでも、我ながらよくあんなもん作ったな、と思ってしまうのは、1点1点の密度が強烈だったからなんだろう、と考えている。今年1年で作ったコラージュ作品がトータルで20いってないわけだし、周期としてはおよそ半年ペース(デザインフェスタに時期を合わせてある)なわけで。ただ、半年というタイムスパンの中には、実質的な制作期間以外にコンセプトメイキングの部分がかなりあって、作業そのものよりもそちらのウェイトが高くなってきた、という感触もある。ずいぶん昔に「100枚描き散らすよりは、1枚じっくり取り組んだ方が良いものができる」という話を聞いたことがあって、またとある画家のお弟子さんが「きみは1点を1ヶ月で仕上げているようだが、1点に1年かけるくらいの執念をみせなさい」なんて師匠にいわれたなんて話を聞いたりして、そういうことを意識的に実践しているわけではないんだけれども、今年の作品の作り方はまさにそんな感じだったのかな、とふと思ってみた。
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高校時代の美術部の顧問の先生の言葉。
「どんなに技術が稚拙でも構わない。作品に情念を込めて作りなさい。情念のこもった作品は見る人を圧倒する力をもつようになる」
変態製造工場(別名:仙台第一高等学校)の美術教師らしいっちゃらしい言葉だ。
(1年間で風景画、抽象画、版画、オブジェの4点を作ったんだけれど、たしか抽象画をやってるときにこんなことを言ってた記憶がある)
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今のうちの主たる収入源は計算化学というメジャーなんだかマイナーなんだかよく分からない分野。デザインともアートともこれっぽっちのつながりもないように見えるところだ。たぶん傍から言わせると、「全く畑違いの仕事をしていてつまらなくないのか?」ということになるんじゃなかろうか。でも考えてもみたまえ。うちは心理学を大学で専攻して、そのままデザインの業界に入っちゃったような人間だ。デザインの世界で心理学がこれっぽっちも役に立たないとお思いだろうか?とんでもない。なまじ平面構成しかやってこなかったような人間にくらべれば、よっぽどロジカルに画面を構成できる。まぁ、確かにシュレディンガー方程式は直接何かに使えるようなものではないけれど、量子の世界をのぞきこんだことで、世界の見方が一変した。それをもっとも端的な形で示したのが"Angelic Alchemy"だということは、言わないとなかなか気付いてもらえないんだけれども。
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“アイロンをかける”という行為からですら、人は何かを学ぶことができる。
何も学ぶことなどない、と考えるのは、行為に対する考察があまりにも足りないからだ。
物事を、世界を、もっともっと深く感じ、考えてみたまえ。
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文章を書いていた頃も含めると、創作、という行為に関わってかれこれ15年くらいになる。高校の半ば頃に感心が文章から絵にシフトし、社会人になってから写真へ、そしてここ数年の間にグラフィックへ、と興味関心の軸はシフトしているが、創作そのものを止めていた時期はほとんどない。周囲から「なぜそんなにモチベーションを保てるのか?」と疑問を呈されることもあるが、かれこれ15年もやっているとそれが生活の一部になってしまって、今さらそれを変えることもできない。そしてそれだけ続けていると、はっきりと見えてくることもある。それは、「どんなに些細な物事でも、表現の手段として取り入れることができる」ということだ。世界はあなたが思うほど、底の浅いものでは決してない。世界は深く、広いものだ。たったひとりの個人がそれを網羅的に理解することなど、到底できない。あなたが「理解した」と思っているものの大半は、西瓜の皮のほんの表層部分でしかないことがほとんどである。
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理解できないことは恥ずべきことではない。
だから、人は理解しようとするのだ。重要なのは、理解しようとする態度である。
そして、もっとも恥ずべきことは半端な理解をふりかざして「理解した」とうそぶくことである。
心せよ。
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私はあなたに理解そのものを求めない。
私が求めるのは、理解しようとする態度である。
私の作品に対して、基本的に“的外れなコメント”というものはありえない。
なぜなら、作品のもっとも本質的な部分は私に対してすら、隠されているからだ。
だから、あなたのコメントが的外れであるのかどうか、私には判断できない。
ただ、それがあなたの世界の理解の仕方の枠組みなのである。
私が作品を通して提示しているのは、世界の断片なのだから。
2005年12月21日(水) 投函
しました、クリスマスカード。
切手はイサム・ノグチです。
変なおっさんの切手、とか言わないように。巨匠です。
2005年12月22日(木) 責任
責任の所在が不明確であることは、多くの人にとって不幸である。
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誰が嘘をついているのか。
誰が本当のことを言っているのか。
もはや、それすらも不明確である。
やり場のない感情の矛先は、「悪そうな顔をしているから」「物言いが気に入らないから」といった愚にもつかない理由で、本来向けられるべきではない人に向かってしまう。
多くの場合、冤罪はそのような心性のもとに生じるものと考える。
※アメリカの陪審員制度によって、明らかに有罪な者が無罪となった理由を直視せよ。
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秘密は、ときに人を殺す。
秘密を抱えて自ら命を断った者のいかに多いことか。
それほどに、責任は人にとって重荷である。
だから、責任は分散される。
分散された結果、そもそもの責任の所在が不明となるのである。
それは、責任を負った者の責任である。
しかし、本当にその責任を問うべきなのであろうか?
私には分からない。
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誰かが嘘をついているのである。
おそらく、それに間違いはない。
その嘘によって、真実が歪曲され、もしくはどこかに隠されてしまった。
それによって多くのものが損なわれている、という事実は、誰にとってももはや看過できない事態である。
2005年12月26日(月) 死について
どんな生物も、等しく死ぬ。
生存時間の長短に差はあろうが、生命体は必ず死ぬのである。
そして、死は実にあっけなく訪れる。
美化・誇張されて描かれることが多いが、生物は実に実に、簡単に死ぬことができる。
その事実を、決して忘れてはならない。
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生物はなぜ死ぬのか?
その問いに対して、哲学、宗教はそれぞれの解答を用意した。死を前にして恐れる人に「恐れなくとも良い」とささやきかける。では、なぜ死を恐れるのか?死が終焉だから?死が苦痛を伴うから?死後、生があるということが、本当に救いになろうか?死が終焉でない、ということが、本当に救いになろうか?
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死を体験するのはあくまで“私”である。
誰かのかわりに死んだとて、死んだのはあくまでもそのかわりの者であって、死を免れた者ではない。
死は極めて個人的な体験である。
仮に死を“体験”の範疇にくくれるものとするならば。
だから、死後に生がある、という教えは仮説に過ぎない。
その仮説に反証可能性はかけらもない。
反証可能性がない、といって、それが誤った仮説であると証明もできない。
すべては個人の中にあり、それは、もはや誰も手を触れることができない。
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死は冷たい事実である。
美しく飾ることも、壮絶に誇張することもできようが、そうすることができるのは生者の手である。
死者にとって、死は死でしかない。
同様に、本質的には、生者にとっても、死は死でしかありえない。
そこには意味も理由もなく、生物学的事実があるのみである。
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それでも私は、親友の死に対して涙を流した。
死は死でしかありえないと知りながら、私は涙を流し、哀しんだ。
意味を与えようとし、結果意味を与えられず、私は途方にくれた。
これが、生者にとっての極めて個人的な事実である。
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死を恐れない、とあなたは言う。
しかし、私はあなたの死に涙を流すだろう。
目をそむけてはならない。あらゆる事実から。
2005年12月27日(火) 創造的現前
世界はただ“在る”のではない。
常に我々によって創造されつつ現出する。
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かつてアインシュタインはダライ・ラマにこう問いかけたという。
「もし誰も月を見上げなかったとしたら、その瞬間、本当に月は存在するのだろうか?」
ダライ・ラマはこう答えた。
「人が月を見ていなくとも、神は月を見ておられる。だから、月は常に存在するのだ」
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人であるとか神であるとか、そういう部分を抜きにして考えれば、両者には共通するものがある。それはすなわち、「見る、という行為が存在者を在らしめる」という点である。この論点を拡張すれば、感覚(視、嗅、触、聴、味)によって捉えられた存在者が、まさに存在者として在らしめられる、ということになる。
※アインシュタインがこの問いを発したのは、観測者の存在による観測対象への影響、という量子力学の「不確定性原理」への批判(月を電子と読み替えれば良い)が根底にあるが、私はここに、アインシュタインの“存在”に対する鋭い洞察が含まれていると考える。
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蛙の視覚は人から見たら奇妙にうつるかもしれない。蛙は、動くものは見えるが、動かないものは見えない。つまり、動くものが蛙にとっての存在者であり、動かないものは蛙にとっては存在者ではないのである。人には奇妙な世界にうつるかもしれないが、蛙はまさにそういう世界で生きている。
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ハイデガーは存在者の背後に隠された“存在”そのものを命がけでとらえようとした。それは哲学史上、偉大な業績であることは、ここであえていうほどではない。しかし、ここで改めて考えてみたいのは、むしろ現前する“存在者”である。
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“存在者”とは何か?
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我々は生きている。死者は常に完全に死んでおり、生者はいつ死ぬかは分からないが、今この瞬間、生きていることは確かである。我々は、ありとあらゆる現前に包み囲まれて生きている。しかし、あなたは気付いているだろうか?それがただ“在る”だけでは、“あなたにとって存在しない”と同義であるということに?
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月は見上げられて初めて“月”となる。見上げた瞬間、ただ在るだけであった月はあなたと関係をもち、“月”となるのである。月はあなたの“見上げる”という行為によっていわば創造され、“月”として現前するのである。ただ“見えている”だけでは、それはあなたと何ら関係をもたない、ただの丸く光る月である。“見えている”という無為と“見る”という作為の決定的な差が、ここにある。
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あなたは世界を“見て”いるだろうか?
ただ漫然と“見えて”いるだけにすぎないと自問したことはないだろうか?
世界はあなたの“作為”によって常に新しく創られ、その都度、あなたと関係をもち、現前する。
世界は冷たく同時に暖かい。苦く同時に甘い。ただ通り過ぎているだけだとしたら、あなたにとって世界は存在しないも同様である。
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あらゆる感覚を研ぎすませ。
色付いた世界はかくも美しい。
2005年12月28日(水) 仕事納め
です。
2005年12月31日(土) 2005年の最後に
多くの新しい出合いと、いくつかの驚くべき再会に、感謝。