日々の泡粒

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2006年1月1日(日) あけましておめでとうございます。

今年は1月17日からの個展を出発点として、ハードな1年になりそうな予感がすでにしておりますが、なにとぞよろしくお願いたします。

2006年1月4日(水) 仕事初め

です。

2006年1月5日(木) 積雪上等/素晴らしき擬音の世界

今朝バスで通勤途中、国際センターの辺りの歩道が嫌な感じに凍っていて、非常に嫌な予感がしたんだけれども。扇坂辺りは積雪があって、半導体研究所前は歩道の表面が雪で見えない状態。工学部前はおよそ15cm〜20cmの積雪。しかも、年末に降った雪の残りの上に積もったものだから、なおさらひどい。雪を踏みしめると下の方が凍ってる。こりゃ危ない。

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9時半頃、煙草を吸いに外に出たら、ものすごい強風。「ごぉ〜っ、ごぉ〜っ」とか「どど〜ぅ、どど〜ぅ」とかそんなんじゃなくて、「びよ〜、びよよ〜」って感じだ。いや、文字にするとなんだか間抜けだけど、ほんとにそうなのよ。「びよ〜、びよよ〜」って。狂言では犬の鳴き声を「びよ、びよびよ」と言うらしいけど、あ、それは関係ないけど。ほんっっと、「びよ〜、びよよ〜」なわけ。すごい。何がすごいって、文字にするとこんなに間抜けになるところがすごい。日本語の擬音は素晴らしい。

2006年1月6日(金) 個展間近にして思う

個展の最終準備(作品タイトルのタグを作ったり、配置を考えたり、いろいろ)をしながら、ふとあれこれ考えてみた。

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仙台に戻ってきてからもう2年半も経った。2年半といったら結構な時間だ。その間、結構しんどい目にあったりもしたけれど、ここまで作ることをやめずにやってこれたのは、ひとえに良い友人達に恵まれたからだと思う。今はもうなくなってしまったけれど、あのお店があったからこそできたことだって、ずいぶんあるはずだ。もしかしたらあのまま大阪に留まっていたら、ここまでできたかどうか分からない。それはあくまで仮定の話だけれど。多くの人たちに励まされながらここまでやれたことの集大成を、個展という形でお見せできるのは、本当に嬉しいことだ。こんななんだかよく分からない生き物に関わってくれた多くの人たちに、感謝したい。その感謝の証が、今回の個展という目に見える形となった。

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ここまで辿り着くのに、本当に試行錯誤の連続だった。目も覆いたくなるようなひどい出来の初期の頃に比べれば、自分なりに納得できるものが作れるようになったし、それなりに評価していただけるものになってきたように思う。もちろん、先はまだまだ長いし、可能性だって未知数だ。ここで立ち止まってはいけない。

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いずれにせよ、もう間もなく、自分の集大成が形となる。
アートの後進地域と揶揄される仙台に、何かしら一石を投じられる存在になれれば、と思う。
まずはここから始めよう。

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さて、もうひとふんばりすっかな。

2006年1月10日(火) 本物

ネットと違って実際に時間を割いて見にきていただける、というのはそれだけ支持していただいている、ということの証になるので、来ていただけるととてもとても嬉しいです。ネットで見れる、っていうのは手軽で広く見てもらうためにはとても良い手段だと思うのだけれど、それってやっぱり入り口に過ぎないと思うのです。実際に原物を見るのと画面上で見るのとでは、やっぱり全然違うし。それに、きていただいた方と直接お話しする、という機会があるのは作り手としてすごくプラスです。うちが毎回毎回デザインフェスタに出展してるのはその辺に理由があるわけですし。

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小学校のときの担任の先生の言葉。
「本物の良さを知りなさい。たとえ最低ランクでも、ベンツがベンツであることにかわりはない」

2006年1月11日(水) 基礎訓練

私が登録している海外のネットギャラリー"Epilogue"にこないださらした"a little universe"がアップされた。

http://www.epilogue.net/cgi/database/art/list.pl?gallery=781

↑ここ。"Epilogue"は他とちょっと違ってて、サイト編集者が一定水準以上の作品と判断しないとアップされない。そういう意味でも、自分の位置を確認する上でひとつの基準となる。登録するときはいまだにちょっと緊張するし、アップされたときはやっぱり嬉しい。たまに「?」と思ってしまうような作品があがってることもあるけれど、それはそれ。あくまでも自分の位置を確認するための手段のひとつと考えている。

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村上春樹の“世界の終りとハードボイルドワンダーランド”の一節。

『良いきこりというものは、体にひとつだけ、傷をもつものだ』

どういう意味か分かりますね?

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作り手にとっての基礎訓練とは、技術を磨くことではない、と私は思う。技術は二の次、三の次で良い。もっとも重要なのは、見る目を養うこと、良いものを見分ける目を養うことだと思う。多くの人が「良い」と言ったものを「良い」と言うのではなく、自分の価値基準に従って、良いものは「良い」と、悪いものは「悪い」とはっきり言うこと。そういう「目」が養われれば、自ずと自分の作品に対しても良い悪いの見分けがつくようになる。自分の作品の良い悪いが分かるようになれば、技術はその後からついてくる。何が良くて何が悪いか、はっきりと見えるようになるからだ。

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高校のときの美術の先生がこんなことを言っていた。

「模写をするのもデッサンをするのも、描く技術を磨くためではなく、対象を見る目を養うための訓練だと思いなさい」

至言。

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“見る”という行為の意味を、改めてきちんと問い直そう。
ただ漫然と見るのではなく、対象をきちんと捉えること。
“見る”ということだって、立派な技術のひとつだ。

2006年1月12日(木) 人指し指

去年の末に買ったリング、人指し指にしてます。
もともとは薬指に合うくらいのサイズを選んだのだけれど、いろいろ試してみた結果、どうも人指し指の方がしっくりくる感じなので、それ以来、人指し指。

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買ったお店に、それぞれの指にリングをする際の効用(?)みたいなのが書いてあった。

・親指・・・自分に自信をつける
・人指し指・・・リーダーシップを発揮する
・中指・・・ごめん、忘れた
・薬指・・・自己主張を強調する
・小指・・・恋愛のチャンスをものにする

だそうで。ふぅん、そんなもんかね、と。

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人を指差す、という仕草はなんとなく高圧的でするのもされるのもあまり好きではないのだけれど、たとえば「あっちいけー」とか「こっちこいー」とか、指示を出すときには人指し指をよく使う。つまり、人に指示を出す際に使う指に力を与える、という意味合いで考えると、リングを人指し指にする効用というのも、なんとなく腑に落ちる感じがする。

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さて、その効用のほどは如何に。

2006年1月13日(金) もうこんな時期だ

個展の搬入はあさって。もうすぐじゃんかよ〜。

そんなわけで、会場にいる日取りはのせてますので、どうしても本人に文句つけたい、という方は狙ってきてください。その他の日も場合によってはいる可能性があるので、メールか何かでお問い合わせいただきますと、こちらも助かります。よろしゅう。

2006年1月16日(月) 明日から

個展です。
ギャラリーEditです。
よろしくどうぞ。

2006年1月17日(火) 初日です。

今日から個展開始です。
本日17日はお休みをいただいて終日(11:30~19:30)、ギャラリーにいる予定です。
どうぞいらしてください。

2006年1月18日(水) 初日無事終了

昨日、個展初日無事終了いたしました。
ご来場いただいた皆様、差し入れをいただいた皆様、ありがとうございます。
22日までやっておりますので、まだの方はどうぞお早めに。

2006年1月19日(木) アクチュアル・スペース

さすがに個展、という形になると、デザインフェスタみたいなでかいイベントと違ってン百、ン千っていう単位でお客さんがくることはまずないんだけれども、逆にその分、来ていただいた方とじっくりお話しすることができます。30分1時間くらい、割と平気でいろいろとお話ししてしまうこともあります。デザインフェスタだと人の流れが激しいので、小1時間話をする、というのは状況的に厳しい。

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前にも書いたと思いますが、作品というのはそれ単独では何の意味もなさないものだと考えるようになりました。言葉は悪いかもしれないけれど、物体としての作品は、早い話が紙の上のインクの染みだったり、木のきれっぱしだったり、鉄の固まりだったり、そういうもの“でしかない”。それを“作品”と名付け、意味を与えるのは作者であり見る人なわけなのです。だから、作品は人がいなければ“作品”として成立しない。家が、その中に人が住まなければ“家”として整理しないのと同じことです。

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キリスト教は“関係存在”というものを強調します。旧約、新約の“約”は契約の“約”。だから、聖書は単なる神話である以上に、人と神との間に取り交わされた契約書でもあるわけなのです。聖書の神は人とどのような契約を取り交わしたか。神は罪ある人間を差別なく愛する。だから、人は神を信じ愛しなさい。という契約。そして神を愛するということはどういうことか、について、聖書は語っている。この契約によって人と神との間に関係が生じ、同時に、その契約を通じて人と人との関係が生じる。キリスト教は人間関係の核心をついているように思う。その点に関しては、本来的なキリスト教は素晴らしいものだと思う。それと信仰をもつこととは全く別のことだけれども。

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ネットで作品を発表することのメリットが声高に叫ばれて久しいかと思います。
もちろん、メリットはとても大きいものだと思います。その一方で、損なわれたものがあります。
それは、アクチュアルな場。人と作品が直に接し、人と人が直に言葉を交わす場。
ネットはあくまでもバーチャルな場でしかなく、そこで交わされる言葉は還元すれば2進数のデータでしかない。
2進数のデータには、温度も色も表情もない。
バーチャルスペースは地理的な距離を取り払ったけれども、一方で、人と人との距離をかえって遠ざけてしまったように思ってしまうこともあります。
ネットはアクチュアルなスペースの入り口でしかありません。
ネットですべてが解決してしまうと考える風潮に、私は異を唱えます。

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作品をディスプレイで見るのと、実際に現場で見るのとでは全く違います。
メールでやりとりするのと直に言葉を交わすのとでは全く違います。
バーチャルな場に依存するのは、もうやめた方が良い。

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あ、お花、ちゃんと届いてました。ありがとうございます〜。

2006年1月20日(金) 

チューリング・テスト、というものがある。コンピュータサイエンスの先駆けであるアラン・チューリングが考案した、「人工知能はどこまで人間に近付けるか?」を判定するテストである。やり方は単純で、被験者はチャット形式でキーボードで、予め会話応答用のプログラムを組み込んだコンピュータと対話をし、それがどれほど「人間らしい」かを判定させるのである。もちろん、被験者には対話の相手がプログラムであることは知らせていない。このテストのために、「どのような会話応答が人間らしいか?」が激しく議論され、確たる解答も得られぬまま、チューリング・テストは廃れてしまった。

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わざわざ遠方から送っていただいた花を見て、ふとこのことを思い出した。

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もうずいぶん前になるが、一時期、チャットにのめりこんだことがある。普通に生活していたら決して言葉を交わすこともないであろう相手と、文字だけであれ、会話をすることができるのはとても楽しかった。けれども、ある日奇妙な感覚にとらわれた。私が今こうしてチャットをしている相手は、本当に実在するのだろうか?もしかしたら、サーバに仕組まれた会話用のプログラムなのではないだろうか?考えてみれば、相手が実在するという確たる証拠がない限り、理屈上は相手の実在を証明することも反証することも不可能なのである。

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チューリング・テストは初期のコンピュータサイエンスと人工知能の研究に多大なインパクトを与えたといわれている。しかしそれ以上に、私は存在論のある種の問題を突き付けられたように感じた。

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生けられた花は、触れることもできるし、しっかりとした匂いもある。緑の葉と白の花弁の組み合わせは、控えめながら穏やかな品性をさりげなく漂わせている。これは間違いなく、実在する花だ。実在しない者が実在するものを送ることは、常識の範囲内で考えれば不可能だ(もちろん、発想を極端に飛躍させればそれも可能だろうが)。だから、理屈上、送り主は間違いなく実在する。メール等のネット上でのやりとりしかしたことがなく、実際にお会いしたこともないが、この花がその実在の証拠となっている。

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ものがものとして、人が人として、間違いなく何処かに実在している、ということがこれほど喜ばしいことだとは、これまで考えたこともなかった。実在する、ということがそれほどまでに、あまりに当たり前だったからである。

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私がいまここでこうして生きていることも、あなたがどこかで生きていることも、当たり前のようでいて、実は極めて奇跡的なことだ。それを当たり前のことと見過ごしてしまうのには、世界はあまりにも奇跡的である。

2006年1月22日(日) 無事終了しました

個展の方、無事終了いたしました。
たくさんのご来場、差し入れ、お花、ありがとうございました。
詳細はまた後日。

2006年1月23日(月) 事象空間ー個展の終わりに

当方の初めての個展となる"L.M.0405"は無事終了いたしました。
ご来場いただいた皆様、本当にありがとうございました。
差し入れ、お花等、たくさんのいただきもの、本当にありがとうございました。
「個展は初めて」ということがちょっと意外だったと仰る方も多数ございまして、嬉しいやら恥ずかしいやら、なんだかいろいろと複雑ですが、とにかく思い切ってやってみて良かったと思っています。
収穫もあり、課題もありの6日間、ちょっとでも楽しんでいただければ、当方としましてはそれ以上のことはございません。
この場を借りて、ここまで支えていただいた皆様に感謝いたします。

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個展の具体的な様子なんかはまた後日、当方のサイトに載せる予定ですので、ここではいろいろと思ったことについて、ちょっと書いてみたいと思います。

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先日、「アクチュアルスペース」というタイトルでちょっと書いたことの焼き直しになってしまうかもしれませんが。
アクチュアルスペース、というのはもともと、今回使ったギャラリー、re:bredge editの基本コンセプト。実際の現場で実際の作品を見、人と人がコミュニケ−トする場、という意味です。ネットの存在価値を否定するわけではありませんが、逆にネットがあまりに普及しすぎたことによって、そういう「実際の場」というのが次第に損なわれつつあるように、確かに私も感じます。私はMacを使って作品制作をしているし、ネットも発表の場として使っているので、実はあまり大きなことは言えないのですが、例えばデザインフェスタであったりグループ展であったり個展であったり、そういう実際の場で作品を媒介に実際に言葉を交わす、ということの重要性を強く感じます。

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「事象空間」というのは、今日ぼんやり思い付いた言葉なのです。「出来事の空間」と言い換えても良いものですが、物理的な空間ではなく、出来事の空間というか・・・ちょっとうまい言い換えが思い付かないのですが。
思うに、今回使ったeditのような空間でも、ああいう建物、ああいう場所って、実はそれがただそこに空間としてあるだけでは意味がない。さらに言えば、あの空間に作品がただ置いてあるだけでも、それはなんの意味ももたない。ただそれだけであるなら、物理的な空間でしかなくて、物理学的な意味はあるのかもしれないけれど、社会的な意味は実はまだ発生していない。いつもクローズして電気を消し、ドアを閉めて鍵をかけると、「ああ、今この瞬間、中の作品はいったん死ぬんだな」とふと感じたことを思い出します。空間があり、作品があり、そこに人が入って何かしらのコミュニケーションが発生する、その出来事そのものが空間に意味を与え、そのことによって、空間が空間として初めて成立するんだ、と今回個展という形で展示をやってみて思いました。これが、「事象空間」ということのおおまかな意味です。

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空間に意味を与える、ということは、空間を名付ける、ということとそんなに変わりません。ちょっとした例を考えてみましょう。たとえばあなたがいつも通勤に使う道路があるとします。ちょっと広めの十字路で、脇にちょっとしたスペースがあると想像してみてください。普段通過するだけなら、そこには「道」「道路」「十字路」「交差点」という名を与えると思います。とある休日、そのスペースである劇壇がお芝居の公演をしたとします。そうすると、そこは「十字路」という名から「舞台」という名に変わります。お芝居という出来事が逆に、「十字路」を「舞台」と名付け返したわけです。

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空間とは出来事であると、私は考えます。もちろん、これはかなり乱暴なくくりかたで、私みたいな頭の悪い人間が言うよりも、きちんとした理論をたてて述べてもらった方がよっぽど説得力があるのだと思います。あくまでこれは、私が感じたことをそのまま言葉に置き換えただけのことで、空間とか出来事とか、そういうものの捉え方、表現の仕方は様々あると思います。

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ギャラリーというと、たぶん多くの方はなんだか高尚そうな絵がどーんと飾ってあって、金持ってそうなおじさまおばさまがおほほなんて笑いながら札束のやりとりをしてる、なんてイメージをもってるかもしれません。そういう場はとうに廃れました。芸術、アート、呼び方はなんでも良いですが、そういうものはもう、個人が高い金を出してコレクションするような時代はもう終わったと思っています。例えば食卓に花を飾るような感覚で、アートやデザインが日常にちょっとした彩りを添える、そういうものになれば良いと思いますし、私自身、そういうものを今後作っていければ良いな、とちょっぴり思っています。

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最後になりますが、こういう展示は一回こっきりのものではほとんど意味がない、ということを、申し添えておきたいと思います。特に私自身、作り手の立場ですから、「作る」という作業を日常的に行っています。こういうものは、巨匠の作品がン億円で取り引きされるようなある種マネーゲーム的なものではなく、あくまでも日常の線上にあるものだと思っています。だから、もっともっと、日常に溶け込んでいくようなものになってほしい、と切に願っています。

2006年1月24日(火) トータリゼーション

古代ギリシアに始まる自然科学と形而上学は、20世紀までずっと、細分化の歴史であった。それはおそらく、アリストテレスが「範疇」という概念を発明して以降のことだろうと思う。分類し、系統化することによって、事物は種別化された。一度種別化された事物でも、その中でさらに種別化され、それが繰り返され、実に細かく系統化された。そのように細分化された事物に関する学問は、それぞれの中で独自の用語を生み出し、いまや互いの意思疎通すらままならなくなっているようにみえる。

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だが、20世紀後半から、細分化は統合化へと向かい始める。私が学生の時分に専攻していた言語心理学もしかりである。言語心理学は、現語学、言語哲学、認知科学を越境した、横断的学問であった。いまもその流れはおそらく、変わっていないと思う。また、一度は袂を分かった相対論と量子論も、次第に歩み寄りを始めている。そうしたうねりの中で、最も初期(=古代ギリシア)にすでに分けられていた自然科学と形而上学も、それとなく寄り添おうとしている。自然科学は次第に、形而上学的問題に突き当たろうとしている。

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物事の有り様は実に多様である。
決してひとつの言葉で語れるものでもないし、ひとつの視点で概観できるものでもない。
しなやかな知の有り様が、いま問われている。

2006年1月25日(水) 潜入

河北新報社に潜入。
2月7日の夕刊だそうです。

2006年1月26日(木) 株式騒動

なんかいろいろあるみたいだけれども。
ものすごく率直な感想として、「なんか馬鹿馬鹿しいな」と思った。
「時価総額世界一を目指す」という前社長さんの発言も馬鹿馬鹿しいし、強制捜査の後、一気に売りが殺到したのも馬鹿馬鹿しい。お金があっちいったりこっちいったりしているだけ、要はただそれだけの話だ。その額が大きいということが、一連の問題になっているんだろうと思う。

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株式の売買による利益や損失、というものは、基本的に実質をこれっぽっちも伴わない。昨日100円だった株式を今日200円になったからと売って、100円の利益をあげたとする。その100円はどこからきたか?どこからもきていない。ただ100円があっちからこっちに動いただけだ。100円の価値のあるものを作ったわけでもなければ、100円の価値のあるサービスを提供したわけでもない。社会的には何の貢献もしていないのに、なぜか100円の金が動く。その金銭のやりとりに、なにか無気味なものを感じる。

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株式というのは、いわば、企業による投資家からの借金だ。会社を興す、事業を拡大する、そのために必要な資金を、株式を担保にして借りる。その利子として、投資家への配当金というものが発生する。それが株式というもののそもそもの発想だ。だから、昨日買った株が今日あがったからすぐに売る、というのは、株式というシステムの根本的な発想からは大きくはずれるものだ。

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基本的に、株価の上下は実体を伴わない。今回の事件のように、情報を操作することで簡単に上下させることが可能だ。そこにはモノもサービスもない。ただ、金額があるだけ。株価が上がる、下がる、というのは、その株式を発行している会社の実績なり実体なりとは本質的に異なるものだ。だから、株式の時価総額がいくら、というのは、実はすごいことのように見えて何の意味もない。私が今回の事件を「馬鹿馬鹿しい」と冷たく突き放す理由はそこにある。

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貨幣とは何か、を考えると、そのことがより明確になる。もともと物々交換が基本だった流通において、モノやサービスの価値を具体的な形態に落とし込みましょう、というのが貨幣経済のそもそもの発想だ。貨幣はだから、もともとは貝であったり貴金属であったり、そういうすでに何かしらの価値を付与されたものだった。それが時代を経て現在の貨幣あるいは紙幣という形に落ち着いた。貨幣経済というものは本来、実体を伴った価値のあるもののやりとりであって、実体のないものにはそもそも価値がなく、従ってそこに金銭の授受が発生することそのものがどこかおかしい、と私は考える。

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金=価値ではない。金はあくまでも価値を仲介する存在でしかない。そのことがこの資本主義社会ではいつの間にか置き去りにされ、奇妙な貨幣システムだけが、一人歩きしているように感じる。

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惑わされるな。
価値をしっかりと見抜く目を養え。

2006年1月27日(金) 腹が据わる

個展も無事終了して、取材も完了、預けていたでかい作品も搬出し終わって、さてそろそろお礼状の発送作業も始めようか、という頃合、そんな微妙なタイミングにまた仕事を山程増やされた今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

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仕事の帰り道にあるとはいえ、6日間毎日ギャラリーに通う、というのは案外大変です。でも、やってできないことはないな、とも思いました。なんというのかな、「やる」と決めたら人間、案外やれちゃうもので。随分前に誰かが言ってたことなんだけれども、「やる、という決意を固めた時点で、事はほぼ成し遂げられたと思って良い」。これまで生きてきて、やろうと思えば大概のことはできてしまうことはなんとなく感じているし、それをふまえた上で「やる」と決めてしまえば、本当にできてしまうものなんだな、と。仕事だって同じことで、山程増やされたとはいえ、決して不可能ではないと思うし、むしろ「いっちょやったるか」くらいの勢いだったりするので、これはこれでなんとかなりそうな気もします。前にも書いたかもしれないけれど、難しいと手をこまねいている暇があったら、とりあえずチャレンジしてみるくらいの気概をみせなさい、キミ。やってみたら案外できるかもしれないし、もしかしたらできないかもしれない。でも、やらなかったら「やらなかった」という事実しか残らんのだよ。新しいことをやるにあたって失敗はつきものだし、一度や二度の失敗で凹むことなんかない。

2006年1月30日(月) 気になった言葉

「仕事選びは恋人選びと似ていますね」

うむ。

2006年1月31日(火) 伝えたいのは言葉だけじゃない

こうやって文章を日々書いているけれども。
なんとか言葉を絞り出しているけれど、「いや、そうじゃなくて」といつも自分に突っ込みを入れてしまう。
確かに言葉にすると、なんだかはっきりした輪郭を描けたような気分になるのだけれど、それ以外のはっきりしない、なんだかもやもやした部分はそのはっきりした部分に隠されてしまって、どうにもうまく伝わらないことがよくあるのだ。
一番言いたいのはそのはっきりしない、どちらかというともやもやした部分であることも多いんだけれども、ときに思わず妥協してしまってそういう部分は捨象してしまうこともままある。



言葉で全部説明できるんなら絵なんか描かない、といつも言うのはそういう意味だ。

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