日々の泡粒
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2006年3月3日(金) 第一波終了
というわけで。
ようやく少しだけ落ち着きました。
2006年3月4日(土) 流転
何ごとも、変わらず一様であることはできない。
季節が巡り、やがて雪が溶けるように、世界は流転するもの。
変わってしまうことは悲しいことかもしれないけれど、川の水は一所に留まることは決してない。
それはどんなことでも同じだ。
だから、必要以上に恐れることはない。
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けれども。
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己の核となるものは、安易に流されてはいけない。
すべての力を振り絞って、それをつなぎとめよう。
花の種子は風に飛ばされるけれど、やがて大地にしっかりを根を張るものだ。
2006年3月6日(月) 見た目より健康
肩こりです。
サロンパスはってます。
一応はにおいのきつくないのを選んでますが。
におったらごめんなさい。
2006年3月7日(火) 心得
目的意識を常に明確にすること。
・何を、何のためにやるのか?
筋道をたてること。
・何をやった結果、どうなったのか?その原因は何か?
ぼんやりしていればただ時間は無為に過ぎてゆく。
今なすべきことは何か、を常に考え、実行すること。
失敗は悪いことではない。もっとも悪いことは「やらない」ことだ。
2006年3月8日(水)
期待してたほど落ち着きませんでした。
2006年3月9日(木) 嘘と裏切り
ユダはイエスを銀貨と交換に売り、後悔の念に耐えかねて首を吊った。
ペテロは夜明けまでにイエスを「知らない」と三度いい、自らの弱さに涙を流した。
ユダは後に裏切り者の象徴とされ、ペテロはローマ教会の初代主教となったとされる。
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しかし、二人の行為の間に、どんな差異があるだろう?
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たとえ二人がその後、どういう道をたどったにせよ、それぞれの行為の本質は同じである。嘘も裏切りも、ともに己の弱さ故に為してしまったことだ。そして、その本質は、双方の立場がどうあれ、同列である。裏切り者と呼ばれようが、教会の権威となろうが、本質は同じである。ユダは悪人、ペテロは善人、ということを述べているのではない。本質的な弱さは誰であろうともっているのだ、ということを、この二つの逸話は語っているのだ、と私は認識している。
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このような本質的な弱さは誰もが必ず持っているものだ。強さがその人のある側面であるのと同じに、弱さもその人のある側面である。強いだけの人も弱いだけの人もいない。相矛盾するものをあわせ持つのが、人というある精神構造の本質である。そして、それで良いのだ。弱いということは悪いことではないし、強いということは良いことではない。弱いことを蔑むのも、強いことを讃えるのも、正しいことではない。ただ強さや弱さがあるだけなのである。
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あなたは強くありたいと言う。
しかし、その強さによって犠牲になるものもまた多々あることに、思いをはせてほしい。
あなたの望む“強さ”とは何なのだろうか?
それはもしかしたら、ある種の“弱さ”の内にある“強さ”かもしれないのだ。
2006年3月10日(金) オーラソーマリーディング
なんか最近ときどき見かけるので、試しにやってみた。
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1本目「ソウル・ボトル」
ボトル名:Creativity (創造性)
もともとあなたは、とてもしなやかなハートの持ち主で、新しいことや未体験のものであっても、抵抗なく受け入れることができる人です。「人生はレット・イット・ビー」という楽観的な精神で、うまく流れに乗っていきます。特に星が大好きで、占星術、天文学などを学ぶ傾向にあります。また、言葉以外のコミニュケーション能力に優れていて、例えばダンスや絵画、音楽などで創造性を発揮します。作品を通じて、多くの人に自らの想いや考えを伝えることができるでしょう。直感力や感受性を磨いていくと、天使や精霊とつながる可能性があります。
2本目「チャレンジ・ボトル」
ボトル名:Chang Tsu (荘子)
あなたは子供の頃に、過大な責任を負わされたことがあるのかも知れません。失敗するのではないかという恐れが先に立ち、自分から行動を起こすことを避け、物事がただ起きてくれることを期待しているようです。内面にある不安や恐れに気づいて、それらを解放していく必要があります。自分がどれだけ価値のある人間か、まずあなた自身が認めてあげることが何よりも大切なのです。そうすれば、もっと積極的に自分の力を活かすことができるでしょう。
3本目「ヒア&ナウ・ボトル」
ボトル名:Saint Germain (セントジャーメイン)
深いヒーリングと変容の時が訪れました。何年もの間、堂々巡りを繰り返してきた思考の輪を断ち切り、否定的な思考のパターンを解放していくチャンスです。心の奥に存在するあなたにとっての真実、“良心”の声に耳を傾け、それを信頼していきましょう。そうすれば、これまで以上に強烈な直感力が働き始め、さらには、サイキックな力が開かれる可能性もあります。直感の導きに従っていくと、必要なものや情報が手に入りやすくなります。仕事のパートナーや恋人など大切な出会いも訪れるでしょう。
4本目「フューチャー・ボトル」
ボトル名:Peace Bottle (ピースボトル)
つねに穏やかで平和な心の状態を大切にしているあなたは、感じるままに自己表現し、周囲の人々に安らぎや寛ぎ、リラックスを与えています。社会に対してもつねに「平和でありますように…」と願っていて、そのために最善を尽くそうとします。また、誰に対しても信頼感や安心感を与えることができるあなたは、話すこと…例えばカウンセリングや人前で講演することなどを通じて、人の役に立つ機会を得る可能性が大いにあります。新たな分野への挑戦を恐れず、自信を持って未知なる扉を開いていきましょう。
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だそうですよ。
細かい評価はお任せします。
※支店の方ではボトルナンバーとボトルカラーも書きましたが、実際にやる際の先入観になるといけないかと思い、こっちではボトルネームだけにしときました。
2006年3月13日(月) DNAは進化の夢をみるか?
DNAは夢を見るんでしょうか?
我々が一般的な意味で使う“夢”という観点からすれば、たぶん、DNAはそんな夢は見ないと思います。でも、もしかしてもしかしたら、我々には想像もつかないような意味での“夢”なら、見ているのかもしれない。
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そもそも夢をなぜみるのか、については実はそれほど多くの事は分かっていません。というより、“ほとんど全く分かっていない”という方が正確かもしれません。ひとつの説として、「夢は覚醒時に知覚された情報を整理するためのものだ」というものがあります。全ての情報を記憶していたのではメモリがパンクしてしまいますから、その情報を選別している、その作業の現場を“夢”という形でみているのだ、ということ。もちろん、異論反論はたくさんあります。
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生物の進化の歴史を見ると、それは必ずしも無秩序ではなく、ある方向性が認められる、といいます。たしかにカンブリア紀の爆発的な多様化のように、無秩序な“実験”は過去、何度かあったようです。それにしても、全くの無秩序と考えてしまうには腑に落ちない生き物もたくさんいます。
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ほ乳類である鯨やイルカが魚類と似たような形をしているのは、無秩序な進化の結果でしょうか?
花の形そっくりのカマキリは、偶然うまれたといえるでしょうか?
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別のなにものかの意志が介在している、ということは容易いです。でも、それは説明になっているようで説明になっていません。じゃあその「別のなにものか」はどのようにして生まれたのか、説明できなければ意味がないからです。
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なんとなく、DNAもある種の“夢”のようなものを見ているんじゃないのかな、と夢想してみました。仮に夢が情報整理の場だとするなら、DNAも同じように、細胞の中を漂いながら、そんな過去の進化を振り返り、この先の進化を夢見ているのかもしれません。
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と、たまには科学的省察抜きにこんなことを空想するのも楽しいものです。
2006年3月14日(火) “存在”という企て
“存在”とは、ハイデガーの論ずるように、“贈与”であるのか?
“在る”ということが、それほどまでに本当に、受動的なものなのだろうか?
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ハイデガーは“存在”と“存在者”を切り分けることで、“存在”そのものを浮き立たせようと試みた。しかし、私は思う。“存在”は“私”とは切り離せないものだ。キーとなるのは、「誰にとっての“存在”か?」であるように思う。たしかに、“私”がなくとも、森は在り、海は在り、大地は在り、月は在る。“在る”という事態そのものは、“私”とはまったく独立したものだ。だけれども、「それが存在している」と言葉を発するのは“私”である。“私”抜きに世界は存在する、ということとは無関係に、世界は“私”を取り囲み、その世界を“私”が名付ける。名付けることで曖昧だった境界が分節され、そこに“私”の世界が現出する。
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“存在”とはある種の企てである。
それは与えられるものであると同時に、“私”が与え返すものである。
“私”は世界に対して思うほど受動的ではない。
すでに創造された世界を“私”が再び創造する、現前と認識の螺旋である。
“存在”は“私”において企てられ、“存在する”を“存在し返す”のである。
2006年3月15日(水) 切ない光
ここ最近めっきり日が長くなってまいりまして、先月だったらもう薄暗くなり始めた午後4時半でも、まだまだ昼間のように明るくなってきました。
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なぜかしら、この時間帯の日の光が切なく感じられます。
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空はまだ明るいのだけれど、太陽はだんだんと西に傾き始め、真っ白だった光が次第に赤みを帯びてくる時間です。地面に落ちる影が東の方に伸び始め、周囲の空気も何となく、昼間とは違った色合いに見えてきます。空はまだ真っ青で、上を見上げればまだ昼間であるはずなのに、空気そのものは、だんだんと夕暮れに向かっている時間。そういった空の色と空気の感触と影の向きと、全部ひっくるめて、そういう全部にふと切なさを感じてしまいます。
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なぜそんな感情を抱くのか、なんて分かりません。
ただ、ふいにそういう感情に気付いた、というだけのことです。
2006年3月16日(木) 無関心はときに人を殺す
♪予備校教師を殺すには〜
あんたの授業をとらなきゃ良い〜♪
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人を殺すのはなにも武器や毒薬ばかりではない。
無関心が、遅効性の毒のように、次第に人を殺すのである。
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私は一人の作家として、あるいは一人の人間として、関心を糧に生きるものである。
もし誰一人として、私の作るもの、言葉、行動に関心をもたなくなったとしたら、それは私という作家あるいは人間に死を宣告するようなものだ。
だから、私は作品に対して必死である。
それは「生きる」ということと同義だからだ。
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想像してみてほしい。
もし誰もがあなたに対して一切の関心を抱かなくなったとしたら・・・?
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もしあなたが「人が自分に対していつか一切の関心を抱かなくなるのではないか」と不安を感じたことがないとしたら、それは幸せなことだ。それはとりもなおさず、あなたに対して常に関心を抱く誰かがいる、ということ。ただし、慢心してはならない。その関心でさえ、必ずしも持続するものと保証されたものではないからだ。
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無関心の前では、どんな侮蔑も嘲りも、関心の方向がこちらに向いているという意味においては、甘やかな言葉である。そういう意味では、文句を言われることも、怒りをぶつけられることも、十分堪え忍べる。無関心は人に対する最大限の侮辱である。だから、私が「関心がない」といったとき、最大限の軽蔑と思ってもらって良い。
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以前にも書いたが、私は決して自己満足のために作品を作っているのではない。
それは私という個人の存在証明であり、私の生きる糧である。
2006年3月17日(金)
嗚呼、所詮はパブロフの犬に過ぎなかったのですね。
2006年3月20日(月)
サムイノハヤッパリキライデス
2006年3月22日(水)
なんかいろいろあるっぽいですよ。
2006年3月23日(木)
そんなわけで、あめふりですがおでかけしてきます。
2006年3月24日(金)
かえってきました。
2006年3月27日(月) 正常と異常の間
今朝、なんだかよくわからない健康関係の番組で「現代の子供たちの脳に異常が起きている」とかいうネタがあった。かつてない活字離れ、理系離れが問題視され、テレビ、ゲーム、ネットなどのメディアの氾濫が影響を及ぼしているようだ、とかいう説明がなされていた。コメンテーターはどこだかの精神科医だった。
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何をもって“正常”とし、何をもって“異常”とするかは、実はかなり微妙な問題だということに、ちょっと気付いてほしい。
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そもそも“正常”とはどういうことを指しているのか?を考える必要がある。
字面からいえば、「正しい状態」のことを指しているんだろうと思う。では、その状態の「正しさ」とはいったい何か?
その「正しい」という基準は誰が決めるのか?
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学生の頃、『異常の構造』(木村敏 講談社現代新書)を読んだ。かなり乱暴にまとめてしまうと、「異常とはマイノリティのことである」ということになる。
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「100匹目の猿」という情報伝播に関する観察結果がある。
ある島に生息する猿のうち、ある一匹が芋を海水で洗って食べる、という行動を始めた。それを真似て、二匹、三匹と芋洗い行動をする猿が増えていった。九十九匹目までは、だんだんと増えていく様子が観察され、次は百匹目か、と思われたが、さにあらず、次に観察したときはすでに島全体の猿が芋洗い行動を行うようになっていた。
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この情報伝播の仕方は示唆に富む。始めのうち、芋洗い行動をする猿は数少なく、マイノリティである。マイノリティであるが故、その広がり方も緩やかで線形的である。しかし、ある閾値を超えると、それはもはやマイノリティではなくマジョリティになる。これまで聞いたこともなかったような商品がある日突然、大ヒット商品になるその過程も、この有り様に似ている。
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仮に“正常”をマジョリティ、“異常”をマイノリティと考えたとき、実はその正常と異常はいつでも入れ代わる可能性を秘めている。今“異常”と目されていることでも、もしかしたら明日にでも“正常”になっているのかもしれない。“正常”だとか“異常”だとか、割と簡単に使ってしまう言葉だけれども、あまり安易に使うべき言葉ではないんじゃなかろうか、と思った次第。
2006年3月28日(火) 世界の輪郭、存在の余剰
例えば絵を描くとき、輪郭線をひいてある領域とある領域とを分割し、対象の形を浮き上がらせる。その線によって区切られた領域の形状に従って、その領域が何を示しているのかを認識する。しかし、改めて考えてみると、我々が線によって表現するような輪郭を、物体は本当に持っているのだろうか、と思う。ある物体とある物体とは、何かしらの力によってある空間領域を占有し、(普通に考えれば)すでに占有された空間領域は他の物体によって同時に占有されることはない。だが、物体がある空間領域を占有する、ということと、輪郭線とは、必ずしも等価ではない。
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人がある物体を認識するとき、自然とそこに輪郭を求める。おそらくこれまでの“慣習”のようなものに従って、物体と物体とを区別し、輪郭を与え、異なる空間領域として認識する。結果、そこにいわゆる“輪郭線”が浮かび上がる。ある物体とある物体とが容易に同じ空間を占有しえない、という感覚は、おそらく経験則によるものと思われる。本来混ざり得ないであろうと思われるものが何かしらの影響によって混ざりあう様を目の当たりにしたとしたら、きっと驚くことだろう。その驚きは“本来混ざり得ないはずだ”という経験則が覆されたことに起因する。また仮に、これまで見たことのない物体があったとしたとき、それと他のものとが同じ空間を占有しうるかどうか分からないため、そこに“輪郭”を本当に認識しうるかどうか、微妙なところである。
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もちろん、輪郭を浮かび上がらせるのはそのような経験則のみならず、例えば物体の質感であるとか色、またそのような情報から推測される物性(固い、柔らかい、軽い、重い等)も影響する。だが、その推測による物性にしたところで、やはり経験則の上にたっているように思う。軽石を手にとったときのことを考えれば良い。見た目はずしりと重そうだが、実際に手にとってみると見た目ほど重くはないことが分かってはっとする。経験則が裏切られた結果である。
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空間認識および物体の切り取り方は、主に経験則によるものと思われる。
しかし、そのメカニズムは実のところ、それほどはっきりと分かっているわけではない。
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ここで氷を考えてみる。
それを手にとったとき、見た目と同じ輪郭が手に触れることが分かる。それと同時に、氷の“輪郭”に触れる少し以前から、氷のもつ冷たさが手に感じられる。その“冷たさ”は“輪郭”をはみだしている。氷の物性は、その輪郭に留まらず、手に感じられる“冷たさ”として、周囲に溢れて出しているのである。
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ある物体は「ある空間領域を占有する」という意味で“輪郭”を持つ。
同時に、例えば熱であるとか音であるとか、輪郭をはみだしたものをもつ。
私はそれを“余剰”と呼ぶ。
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ある物体の有り様は、確かにその物体の特性に由来する。と同時に、ある側面においてはその物体を認識する“私”によって、輪郭を与えられ特性を与えられるものである。従って、物体はただ物体として存在することはできない。それは“私”によっていわば「意味付けられる」ものだからである。
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“私”は私の肉体によってある空間領域を占有することで形作られる。しかし、それはひとつの側面でしかない。その“輪郭”から溢れ出した“余剰”によって、私は初めてあなたと関わりのある“私”となることができる。だが、ネット上にテキストデータとして行き来している“私”とは、一体何者なのだろうか?そこには輪郭はなく、私の“余剰”があるのみである。行き交うデータに私の輪郭はない。であるとするなら、ディスプレイの向こう側のあなたが知る“私”とは、一体・・・?
2006年3月29日(水)
多忙につきお休み
2006年3月30日(木)
チョコ食いたい。
だれかくれ。
2006年3月31日(金) 去り行くものたちへ
冷たい冬が過ぎ、わずかな過渡期を経て、春がやってくる。
そのプロセスの中で、あるものは力尽き、あるものは新しく生まれ出づる。
消えていこうとするものたち、芽吹こうとするものたち、その狭間で、せめぎあういくつもの感情。
歓喜と祝福と、悲哀と憎悪と。
ないまぜとなった渾沌はいずれ、静かに色を失って海へと流れていく。
だからせめて。
色を失ってしまう前に、そのいくつかを描き取っておこう。
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去り行くものたちへ。
たとえ一時の邂逅だったにせよ、むしろそうであるが故に、それはある種の奇跡である。
最後は笑って“ありがとう”と言おう。