日々の泡粒

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2006年7月1日(土) 引っ越しましたよ

はい、というわけで、というわけなのです。
新しい住所をご所望の方はご連絡くださいませ。

2006年7月3日(月) やっぱりいかんと思うのだ

忙しいからって他のことをおろそかにするのは。
やるべきことはちゃんとやる。それは当たり前。
それにプラスして、やりたいこともちゃんとやる。忙しいことを言い訳にしない。忙しいから作品のクオリティが落ちた、なんてことは絶対にいわせてはいかんのだ。

2006年7月4日(火) 迷惑メール

スパムメールがかなりひどいので、光回線が開通したのを確認したついでに、プロバイダサイドで設定できる迷惑メールにマーキングする機能を試してみた。

今日で3日目なわけなんだが、迷惑メールのフォルダにはすでに80件のメールが入っている。どんだけひどいんだ、と突っ込みたい今日この頃。

2006年7月5日(水) 「できない」と言うのは簡単だ

あまりに簡単すぎて涙がでてくる。
できることだけやってるんだったら、人がやる必要なんてない。
できないことを可能にするから、人の頭と手が必要なんだ。
言い訳に耳をかしている暇なんかない。
そんなことをしているなら寝ている方がよっぽど建設的だ。

2006年7月6日(木) 洗濯機のある幸福

洗濯機がようやくきたよ。
素晴らしいね、洗濯機。
掃除洗濯大好きっことしては、こんな幸せはない。

2006年7月8日(土) 光の点

暗闇の中を、いつも手探りしているようなものだ。

わずかな光の点を見つけると、その方向に駈けていく。

ほとんどの場合、それは固い岩に阻まれたわずかな隙間である。

しかし時折、手で広げられそうな隙間であることもある。

道具がなければ手で掘り進むことだ。

たとえ血まみれになろうとも。

2006年7月9日(日) 仕事漬け

今日も仕事してきましたよ。
休んでたらおっつかない量になってきたので。
せめて日曜くらいは休めるよう、奮起してください。
お願いします。

2006年7月11日(火) 世界と細部

大きな感情の揺さぶりには目がいくが、小さな感情の動きにはなかなか目がいかない。日々の些細な出来事、それにまつわる些細な感情、そういうディティールが、本来世界を形作っているのだと思う。

“美は細部に宿る”

誰が言ったのだか失念してしまったけれども、些細なこと、普段は気にもとめないようなことにこそ、なにかものすごくとてつもないものが潜んでいるように思うのだ。

外から聞こえる車の音も、遠くに見える山並も、今こうして、いつも当たり前のように目の前におかれている灰皿にだって、ある種の世界の本質的なものが宿っているはずなのだ。いや、むしろ、そうした些細な物事の一切が、世界を構成する本質の一部であるのだ。

すり減り、疲れ果てたと感じたとき、普段当たり前に見ているものにじっと目をこらしてみよう。当たり前に聞いている音にじっと耳をすませてみよう。そしてその奥底からわずかにざわめく些細な感情に、そっと身を預けてみよう。

それが、世界そのものだ。

2006年7月12日(水) 分身さん希望

近頃、手が2本じゃまったく足りません。
脳が1個じゃ足りません。
手が10本あって、脳が5個くらいあって、周りに5台くらいマシン並べて並列処理すれば、かなり仕事もはかどると思います。

でも、さすがにそこまでいくとドクター・オクトパスになってしまうので(スパイダーマン2を参照)、分身さんを希望します。何人もいたら気持ち悪いので、まずは3人からスタートしようか。
厳しくなってきたら増やしていく方針で。

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とかなんとか、疲れた頭で妄想してみた。

2006年7月13日(木) あ、いかんいかん

前も書いたけれども。
目の前の仕事に忙殺されて少し先のことを見通せなくなるようではいかんのだ。
忙しいことを理由にいろんなことから目をそらすのはいかんのだ。
確かにいま登っている坂は急で厳しいかもしれないが、目的地は峠ではなく頂上なのだ。
坂を登っていかなければ先へは進めない。
けれども、坂を登り切っただけで満足してちゃ、絶対にいかんのだ。

いまなすべきことはちゃんと行う。
その上で、もっと先を見通した努力を怠るべきでは決してないのだ。
目の前に積まれた仕事の量のあまりの多さに、一番大事なことを忘れかけてたことに、ふと気付いた。

2006年7月15日(土) 

容易く手に入ったものには、それ相応の価値しかない。

2006年7月17日(月) 間が悪い人

昨日、一昨日は月一の絵描き仕事。張り切って終わらせて、空いた時間にDVDを立続けにみる。さて、月曜は祝日だが計算屋の仕事でも片付けてくっかな、と思っていた矢先の話。

朝っぱらからひどい頭痛。
職場に着いてしばらくして、吐き気もしてきた。
なんと間の悪い・・・
やろうとしてたことの80%くらいしかできなかった。
いや、この状態で80%も出来たことが僥倖か。

なんにせよ、体は大事にしましょうよ。

2006年7月18日(火) 健康

頭痛、治りました。
健康ってすばらしい。

2006年7月19日(水) 

http://savision.docomobile.co.jp/index2.html

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■人生の目標

「威勢のいいおんどり」

 おんどりは、日の出とともに威勢良く時を告げます。

 それは、まるで自分が太陽を登らせたかのような勢いです。
 
 このシンボルをもつ人は、変化のタイミングをうまく掴むことが出来ます。

 物事が変わり始めるときや、何かが起きる場所に偶然居合わせて、ラッキーチャンスを掴むことが多いでしょう。

 自分の努力以上のチャンスを得て、波に乗れる人です。

 説明のつかないブームや時代の流れは、自然界の動きが社会にあらわれたものと思われます。この人は、こうした自然界の動きを本能的に察知します。

 今まで、誰の目にも止まらなかった「なにか」が、急成長する五分前にたまたま居合わせる、そんな行動を自然にとる人です。
 するとまるでこの人が、その“急成長のパワー”そのものに錯覚され、周辺から思わぬ好評価を受けたりします。

 あまりにうまく物事が運ぶことが多いため、周りへの配慮を怠ると、やっかみを受けやすい点には注意が必要でしょう。

 しかし、本人には野心はあまりありません。
 強運も能力の一つとして考えれば、一緒に仕事をする上で、非常に心強い味方であるといえます。

 集団の動きや人間の心の変化に敏感で、今、自分が興味を持っている事が、即、次のブームに繋がることも多いでしょう。
 このような能力を生かせる職業につくと成功できます。


■現在の目標

「鴨に近よるハンター」

 この“ハンター”は“鴨”に近寄り、撃ち落そうと狙っています。

 “狩り”は人間の荒々しい衝動を、ゲームに置き換えて発散させる娯楽です。

 このシンボルをもつ人は、心の中に、抑えきれないエネルギーを抱えています。
 それを上手に発散させることが必要です。

 この人は、本能の欲求が強く、自分の思うままに生きてゆきたいと願っています。しかし、それでは社会に受け入れられないので、限られた範囲で自分の衝動を小出しに発散します。

 ワイルドなイメージに惹かれやすく、そういうものをベースにした趣味や娯楽にはまります。ゲームセンターやクラブに出入りしたり、スポーツカーで高速を飛ばしたり、ギャンブルや、文字どおり“狩り”にはまる人もいるでしょう。

 それらはすべて危険で攻撃的ですが、商品として社会に流通しているものです。

 この人の心の奥底の欲求は、本当は“商品”で満たされるようなものではありません。本能の止むにやまれぬエネルギーが渦巻いています。
 その都度、はけ口を見つけて発散させていきますが、それは生涯に渡って続いていくでしょう。

 本能のコントロールの仕方を理解しているので、そうした分野の扱いに精通してくるところは長所です。
 ギャンブルやゲーム性のある仕事、社会的にはワイルドとされる職業に適性があります。

 有り余るエネルギーを建設的なことに向ければ、一気に普通の人では到達し得ない域にまで達することの出来る人でしょう。


■本来の性格

「地中内部でゆっくりと作られていく石」

 “石”は、地面の奥深くで、地殻変動などの様々な衝撃を受けたり、母岩が含んでいる不純物を取り込みながら、ゆっくりと結晶化していきます。

 そうして出来上がった石は、ゴツゴツした形、内部に入った亀裂や不純物、傷さえもが、たまらなく味わい深い魅力として迫るものです。

 そこには、人の一生の何千倍もの悠久の時を経て完成された、一つの美があるのです。

 その無言の迫力ある存在感は、温度調整されたるつぼで、純粋な成分で形成された人工石とは比べものになりません。

 このシンボルをもつ人は、まるで地中で結晶化する石たちのように、未知の体験を自分の中にうまく取り入れようとする人です。

 もちろん他の人と同じく、衝撃的な出来事が起これば動揺しますし、挑戦が失敗すれば心に傷を受けます。
 しかし、失敗した時の辛さよりも、挑戦したときの喜びやワクワク感を忘れない人です。無意識のうちに、前向きなところに立ち戻れます。

 そして“失敗したけれど、何もしなかったよりは、ずっといい”という想いが心の奥底に残り、その前向きな気持ちは、小さな結晶となってこの人の中で、少しずつ大きく成長していくでしょう。

 このように、この人は結果がどのようであっても、必ずその体験を活かし、人格に何らかの変化を起こします。

 そして成長するごとに、それまで自分が思い込んでいた常識に少しずつ亀裂が入り始め、世の中には常識では割り切れない、善悪を越えたリアルな感動があることに気づくのです。

 自分の内部で、考え方が少しずつ変わってくることは実感できるのですが、まだ本格的に新しい世界に 飛び込んでいくのは早いようです。

 この人の結晶は、まだ新しい自分に生まれ変わる前の、成長途上の段階なのでしょう。


■今の気分

「美しい小川にかけられた古い橋」

 ここに登場する小川にかかった“橋”は、古くから人々が渡り、慣れ親しんだ橋です。

 この小川は、ここでは、新しい発想と旧来の発想の間に隔てられた隙間のようなものをあらわします。

 その隔てを、この古い橋は繋げているます。

 それはつまり、“慣れ親しんだものが、新しい時代を繋ぐ橋となる”ということを示しています。

 このシンボルをもつ人は、目立たないけれど大切な仕事をする人です。私利私欲がなく、素朴で清潔な雰囲気が、周囲の人々から愛される理由です。

 極端な自己主張をすることもなく、自分の立場と役割に従って、淡々と働く人です。また、古いものに畏敬の念を抱いており、とても大切に扱います。

 なかには所属する民族の長い伝統を、代表するような仕事についている場合もあるでしょう。

 またこの人が、自分の考えを社会にアピールするときには、神話や古い伝統など、昔から使われている、ありきたりなパターンを使うかも知れません。

 こうした、古くから伝えられている代表的なイメージは、ほとんどの人の心のなかに、記憶として残っているため、そこを刺激すれば、多くを語らなくとも自然に自分の考えが伝わるということを、この人は良く知っているのです。

 一見、目立たないようにみえて、実は多くの人にアピールする要素を秘めています。その穏やかなカリスマ性に、実は陰では多数のファンがついているかもしれません。


■エナジーポイント

「贅沢な書斎で読書を楽しむ人々」

 贅沢な書斎のイメージとは、どんなものでしょうか。

 豪華な本棚にたくさん詰まった、文学全集の数々。

 人を招いても引け目を感じない、品のよいインテリア。

 書斎は読書をしたり、執筆に使う以外に、お客さまをお通しする場所としても使われます。

 本棚に並ぶ本もインテリアも、人に見られることを意識して揃えられていることが多いのです。

 このシンボルをもつ人は、親しい人達を家に招き、お茶を飲みおしゃべりを交わし、お互いの教養を楽しみながらくつろぐといった、知的な交流をたいへん好みます。

 その時代ごとの流行を、家の中に持ち込むのが上手いでしょう。
 あまり最先端過ぎず、かといって古臭くもない、程良い“流行”を楽しみます。

 常に人の目を計算に入れつつ、ちまたに溢れる流行りモノの中から、程よいセンスのものを丁寧に選び取れる人です。

 独創性があるものより、人が見て分かりやすく、
「なんて素晴らしいんでしょう!」と賞賛されるステレオタイプな贅沢さを追求し、それを洗練させる人です。

 ブランド品に身を包み、一流の調度品でインテリアを統一し、その上で教養もしっかり磨きます。ハイソサエティな人が多いかも知れません。

 自分で何かを生み出す能力には欠けますが、消費そのものを楽しみます。物質的・知的、共に恵まれた環境で暮らしている人でしょう。


■チャームポイント

「手にした巻物から、秘儀を読み取る男性」

 この“巻物”は、一見、何の変哲もない文章が綴られてあります。

 しかしこの男性は、手にした巻物から、隠されていた秘儀を読み取りました。

 彼は、普通の事を綴っている文章の行間から、言葉どおりに読んだだけでは伝わらない、深いメッセージを受け取ったのです。

 このシンボルをもつ人は、状況を細やかに察する事が出来る人です。

 この男性が、普通の巻物から秘密を読み取ったように、この人は、全ての物事をそのまま受け取りません。

 人の言葉の裏の意味、去り際に残した表情など、無言のうちに込められた人の感情のすべてを、自分なりに捉えることができる人です。

 仕事の段取りをいちいち説明しなくても、すぐに全体の流れを掴みます。
 一を聞いて百を知るような人です。

 自分のすべき事を即座に把握するので、トラブルが起こってドタバタするような見苦しさはありません。先を読みながら、静かに次の指示を待ちます。

 状況を即座かつ的確に察する事ができるのは、周りの状況を注意深く観察していることと、自分自身の判断基準がしっかりしていて、目で見える物事に囚われていないからです。

 自分にもっとも大切なものは、何かということを理解し、集中することができる人でしょう。

 言動は哲学的で、落ち着いた雰囲気の持ち主です。

2006年7月20日(木) たまにはこんな話でもどうぞ

ヴォイニッチ手稿
(ヴォイニック写本とも)


ここでカラー画像が見られます。

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調べものしてたらたまたまひっかかったんだけれども。
なんか不思議な絵よね。
内容云々、モノの真贋がどうこう、という話はさておいても。
なんだかよく分からんものをみると、「よくわかりません」というより先に好奇心が先走るじゃない。
いろいろ想像が膨らんだりしてさ。
ことの真相は真相として、あれこれ想像して遊んでみるのも、たまには良いかもしれない。

2006年7月21日(金) あ、良いな

http://lakemirror.exblog.jp/

なんか久しぶりにグッとくる写真を見たような気がします。
文字の入れ方もたまらん。


久々に写真撮りたくなった。

2006年7月21日(金) 私は何故、何のためにここに生きているのか?

“ある出来事”をきっかけに、物事が急に大きく変化し始めました。
その煽りをくったと表現すべきか、その恩恵を受けたと表現すべきか。
正直なところ、今はどちらとも判断がつきません。
ただひとつだけ確実に言えることは、これまで自分がやってきたことが、望むと望まざるとに関わらず、明確に目に見える形となって現れた、ということ。

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今からちょうど2年半前、自分ではまったく予期していなかった世界に飛び込みました。
これまでの人生で、あんなことをするようになるなんて思いもよらなかった。
それでも、生来の性質からなのか、物事を深く追究すること自体は分野は何であれ、嫌いなことではないので、決して楽な道のりではなかったけれど、ここまで続けてこれました。
今でこそ当たり前のように口にしている専門用語も数式も、2年半前は何ひとつ分かりませんでした。
たぶん自分ひとりだけの力ではここまでなしえなかったことだろうと思います。
けれども、だからといって、自分の努力を否定するわけではありません。
質問できる相手がほとんどいなかったから、結局自分でどうにかするしかなかった。
それで、今に至るというわけです。

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ただ、ここでふと立ち止まってみて、思うのです。
そもそもの基本的な疑問として。
自分は何故ここにいるのか?
何のためにこうして生きているのか?
自分が本来望んでいたことは、もしかしたらもはや望まれていないのではないか?
であるとするなら、もう一度ふりだしに戻って、“自分は何故ここにいるのか?”

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意図と現実が甚だしく乖離しているのならば、それは是正しなくてはならない。
しかし、その乖離が仮に何らかの形で自分が望んだものだとするなら、私は自分の“望み”というものを、今一度、改めて問いつめなければならない。
それは“私”という個の生き方の根幹をなすものである。
その幹は私の“望み”を養分として成長するものだ。
だから、私が私であることをきちんと維持するためにも、今一度、どこかで立ち止まる必要があると思うのだ。

2006年7月23日(日) 今日のレシピ

日付け的には昨日だが。

・ビールに合うオムレツ
卵4ケ
バジルペースト適量
塩こしょう少し
コンソメお湯で溶かしたもの
一式まぜてしっかりときます
焼き加減はお好みで
バターで焼くと良いです

※調味料の分量は適当です。バジル入れたから塩こしょうはちょっと少なめかなー、とかそんくらいで。

人に手料理くわせたの初めてだけどなっ
でもなかなか好評だったようでなによりです
美味いといって食ってもらえるとなんか嬉しいね
やりはじめるととまらん性格なので控えめにしときますが

2006年7月24日(月) ヒグラシ

夕方、ヒグラシが鳴いていました。
仙台はまだそんなに暑くないので、蝉自体が少ないのか、聞こえたのはほんの10分程度でした。

ヒグラシの声はどこか物悲しく、美しいものです。
その美しさが物悲しさに起因しているのか、物悲しさが美しさに起因しているのか、どちらなのかは分かりません。
あるいはその両方が二重三重に折り重なって、多層的で複雑な感情をもたらすのかもしれません。

いずれにせよ、何かを“美しい”と感じる感性は、決してなくしたくないものです。

2006年7月26日(水) 天気が良い

今朝おきたら、久々に青空だ。
非常に気分が良い。
これで休日だったらなお良いのだが。

2006年7月27日(木) 花と茎

精巧に形作られ、華やかな彩りを添えられた花は、一瞬、人の目を奪う。
しかし、それを支える茎には、なかなか目を配る人がいない。

茎は実に精緻に作られた装置である。
じっくりと眺めてみれば、深い味わいのある曲線によって構成されている。
なぜそれを見落とすのか、私には分からない。

2006年7月28日(金) 聖女プラクセデス

http://www.icnet.ne.jp/~take/1.html

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フェルメールのオリジナルではなく、フェリーチェ・フィケレッリの同タイトルの模写。もうかれこれ6年くらい前になりますかね。就職で大阪に引っ越したちょうど次の週あたりに大阪市立美術館にフェルメール展がきてて、「これは何をさしおいても見にいかなくては!」と天王寺まで出向いて見てきました。

フェルメールったら、“真珠の耳飾りの少女”とか“牛乳を注ぐ女”とかがまっさきに思い浮かぶ人が多いかと思うんですが、実際に実物を見たとき、一番鮮烈な印象が残ったのがこの“聖女プラクセデス”でした。画面上だとちょっとわかりにくいと思うんだけれども、この赤の鮮烈さ。これはね、やっぱり実物を見ないと分からない。

フェルメールって残っている作品の点数も少ないし、サイズも小さいんだけれど、やっぱり実物を見ると、ああ、すごいな、と思うこと間違いないです。機会があればもいっかいくらい見たいな、と思うんだけれども、フェルメールなんてそうそう日本にゃこないよな。

2006年7月30日(日) 大型布地プリント!

・一般的な半光沢紙に飽きてきた
・点数が多いため、搬入搬出の手間を考えると、額装はあまり現実的ではない
・作品コンセプト上、印刷面のテクスチャで遊んでみたい

以上の理由より、B1サイズで布地プリントをやってる出力屋を探してみた。

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ほー、結構あるもんね。
写真印刷用に“フォトクロス”なんて布地も開発されてるんだー。へー。
高いところは確かに高いけど、一般的な相場だと思ってたほどは高くないな。
さすがにあんまり安いと不安だけれど。
出力見本を発注してみるか。

楽しいことになってきた。えへ。

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Akiary v.0.51