日々の泡粒
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2007年5月13日(日) 石と土
道路はなぜもこんなに硬いアスファルトで覆われているんだろう、と小さい頃からときどき考えていた。走ると足に響くし、転んだら簡単に怪我をしてしまう。裸足で歩くとすぐに皮がむけてしまう。かえって不便じゃないか、と。
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道路がアスファルトで舗装されているのは、自動車のためだ。
自分は車を運転しないので感覚的によく分からないのだけれど、土や砂利のような流動性のある地面では、タイヤは100%うまく機能することができない。タイヤに伝わった回転運動が、一部土や砂利の移動に転換され、エネルギー効率が悪くなる。一方、アスファルトのような堅固な地面であれば、タイヤの回転運動が車の運動に直接に変換されるから、エネルギーの変換効率は良いことになる。
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硬いもの、堅固なものへの欲求はかなり古くからあったのではないか、と思う。
その際たるものが住居だ。柔らかい住居に住みたいと思う人はおそらくいないか極少数であろうと思われる。住居とはすなわち、柔らかい我々の身体を守るものである。何から?風雨、寒暖の変化、生存を脅かす他者、そうした諸々からである。だから、壁は硬くできている。ただ囲いがあれば良い、というものでもなさそうだ。なぜなら、それは“隔て、守る”という機能を付与されているからである。
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武器は基本的に硬いものでできており、それから身を守る防具もやはり硬い。耐衝撃という意味でいえば身を守るのに柔らかいものを使う場合もあろうが(エアバッグ等)、それらは武器に対する防御という意味合いとはやや異なる。硬く、高い運動エネルギーをもったものに対しては、同じかあるいはそれ以上に硬いものでなければ意味をなさない。
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道の多くも、石であれアスファルトであれコンクリートであれ、何かしらの形で“硬く”されている。土がむき出しになった道に対して我々が感じるのは“田舎”、つまりある種の“未開”なのではないか。“柔らかい”ことに対する恐怖心とまではいかなくとも、不安感がどこかにある。それはおそらく“守られていない”“無防備”であることに対する不安感であろうと思われる。
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“文明”とは“制御”である、と私は思う。
土地を耕し作物を育て、川から水を引いて作物をうるおし、森を開いて街を広げ、木や石で建物を建てる。支配者があり被支配者があり、互いに制御しあうことで社会というシステムが成立する。それら“制御”の大本の道具として、人類は“硬いもの”を用いてきた。土地を耕すのに鍬を、収穫には鎌を、木を切るのには鋸を用い、石を削るのに鑿を使う。そして人を支配するのには剣を使ってきた(現代なら専ら銃であろうが)。
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青銅器が主流だった時代、ヒッタイトという民族が初めて鉄を使い始めた。ヒッタイトは鉄を用いた武器により勢力を拡大し、やがて内紛により滅亡した。彼らは“硬さ”により勢力を広げたのである。
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しかし、“硬さ”だけではすべてを制御することはできないのだ。
“硬さ”は同時に“脆さ”をもつことになる。陶器や磁気、ガラスなど、硬いとされている多くの物質は、ある方向への力に対しては弱く、場合によっては簡単に壊れてしまう性質を持つ(おそらく結晶配列に起因するものであろうが)。鉄には軟鉄と硬鉄があり、それらを組み合わせることで、日本刀のような切れ味が鋭く折れにくい刀が作られた。硬いだけでは刀は簡単に折れてしまうからである。
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免震という発想がある。骨組みを強化して震動に耐える耐震とは異なり、震動を緩和することで倒壊を防ぐ方法である。初めて見たとき、本当にこれで大丈夫かと思ったものだったが、確かに一定の効果はあるようだ。耐震が“剛”の思想だとするなら、免震は“柔”の思想であるといえる。
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我々は柔らかい“肉”であるが、我々をとりかこむ構築物は硬い“石”である。けれども、その間にはタイヤや靴底のゴムのように緩衝材がはさまっている。そのままでは折り合いがつかないからだ。そのようにして“肉”と“石”は折り合いをつけてきたけれども、そもそも世界は流動的でもっとずっと柔らかいものではないか?その最たるものが“土”である。
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都市は“土”を忌み嫌う。おそらくそれが制御できそうで制御できないものだからであろう。わずかに露出した土は、公園等に隔離され、可能な限りの制御を施されている。
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“柔らかい”ということを今一度、きちんと見直したいものだ。
2007年5月28日(月) DF vol25終了しました
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2007年5月28日(月) 更新しました
デザインフェスタのレポートとコラージュの新作をアップしました。