日々の泡粒
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2008年2月5日(火) プリズム
例えば、季節によって、目に見える世界の色は大きく異なる。
春であれば花の色に満ちるだろうし、秋であれば紅葉の色に満ちるだろう。
それらは異なる色であり、中には一時的に消えてしまう色もあろう。
けれども、光の中に含まれる色が消えてしまうわけではない。
ただ、それを反射する“モノ”がないだけ。
本来見えるであろう色は、ただ一時的に見えなくなっているだけ。
秘められてしまっただけのことだ。
隠されたものはどこへいったか。
どこへもいかない。
それらは我々の周囲に満ち、ただ、我々の目にはそれを見るだけの感覚の幅がないだけ。
けれども、それが周囲に満ちていることを、我々は知ることができる。
2008年2月7日(木) overlap
例えば、一本の木があったとする。
それは過去、葉を広げ、紅葉し、時には実を落とし、雪をかぶったことだろう。そうした過去の記憶から、その木は再び葉をつけるだろうか、あるいはもう枯れてしまったろうか、とその木の未来を思う。
現前した一つの事象から、過去と未来を重ねて見ることも可能で、そこには流転する事象が一つの重なり合ったイメージとして、現出する。
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自分は、時間は一直線にまっすぐ伸びているものではなく、一種の“周期性”であると考えている。一日は24時間と規定されているけれども、それは時計というものが恣意的に決定したもので、そもそもは、太陽がのぼりまた沈むその周期、月の満ち欠けの周期、河の氾濫の周期、潮の満ち干の周期、そうしたものに、時間の流れ(あるいはサイクル)を感じていたはずだ。暦の発生自体、それらに依っている。
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上の木の例はまさにその周期性である。それは生成消滅しながらも、やがてまた戻ってくる。だから、自分はその木を見て、過去の記憶と未来の期待をだぶらせて見ることができる。そうして事象をだぶらせて見たとき、運行していた周期は、そこで一点に収斂していく。周期の円が、ひとつの点に収斂するのである。その瞬間、全は一となる。
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自分という人間も、おそらくそうなのだろう。誕生の瞬間から死へ向かい始めるのだけれども、それは生物としての周期であるし、生きながら死を含み、死に向かいながら生を含む。自らの尾をくわえた蛇のように、過去と未来が重なり合いながら、ここに“今”として現出しているのだろう。
記憶としての過去と、可能性としての未来と、そうしたものの重なり合いの総体として、今の自分がここに在る。
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人と人との間も同じことで、出会い、別れ、愛し合い、憎み合い、そうした無数の関係性と無数の記憶と無数の可能性の雲の総体として、社会が成り立ち、人と人との間が成り立っている。記憶は簡単に消してしまえるものではないし、可能性も、簡単に否定してしまえるものではない。
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それらの総体として、世界がある。
一としての全である、世界が。
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この観念は、再びプリズムに戻る。
いくつかの色に分けられた、その一つの色が、今この事象である。しかし、その過去と未来がオーバーラップしたものは、プリズムを通す前の透明な光である。それはどちらも在り様として正しく、どちらか一方であることを決めることはできない。ただ、そのように在るだけだ。
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ただそのように在る、ということは、つまるところ、在ることを赦されている、ということだ。私の存在は、消えずにここにある。そうであることがただ、赦されているのだ、と思う。たとえ世界がどんなに残酷に見えても、その残酷さは赦しを含んだものなのだろう。
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こうした考えがふと自分の中で言葉になったとき、ふと、泣きたくなった。残酷で、それでもなお赦す“世界”というものに対して。
2008年2月11日(月) 【動画習作】etude#03 "rain drop"
動画習作第三弾。トップページからもいけます。現段階では。