日々の泡粒
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2008年4月2日(水)
言わなくても伝わることなんて、思うほど多くはないよ。
2008年4月4日(金) “当たり前”のこと
は、実は全然当たり前じゃない。
それは実は、とってもすごいことなんだ。
でも、“当たり前”と思い始めてしまうと、それがどんなにすごいことで、どんなに奇跡的なことなのか、ということをつい、忘れてしまう。
ただ放っておいても、植物は育たない。
放っておかれているように見えて、ちゃんとときどき雨が降るからこそ、植物はきちんと育つものなんだ。
ときに厳しく吹く風もあるけれど、それがまったく必要のないものだと、誰に言えるだろう?
無駄なことなんて、何一つない。
だからこそ、ここにやって来たんじゃないか。
辿ってきた道がなかったなら、此処が何処かも分からないじゃないか。
何かを見失ったと思ったなら、辿ってきた道筋をもう一度見つめ直すのも、悪いことじゃない。
たとえ今、厳しい風が吹いていても、それがやがて豊かな実りをもたらすよう願いを込めて、感謝の祈りを捧げよう。
そして、この祈りが届きますよう。
2008年4月9日(水) 武装解除
しんどくてもある意味幸せ、というのはかなりなどMなんかもしれないけれども。
そういうのはそういうのでま、ありっちゃありかな、とも思う。
自己憐憫ともまた、ちょっと違う感じかもしれない。
こうでなければならない、と堅く考えてしまうと、それがすべてと思ってしまってただただ、きつくなるだけ。
“正しさの許容範囲”みたいなのをちょっと広げてみると、自分がいかに物事にフィルターをかけて見ていたか、が分かる。
もちろん、譲れないラインは確実にあるとしても、それを侵害しない程度の許容範囲はもっても良いのじゃないのかな。
これだって、気持ちのもちようひとつなんだけれども。
ただ、嫌とかだめとか、そういう拒否をするだけよりも、それをいったん飲み込んでみて、その上で、の判断。
いつまでも武器を振りかざしていたら、終わるものも終わらない。
戦うべきときは戦わなければならないけれども。
必要のないことにまで、武器を振りかざすことはない。
2008年4月13日(日)
2008年4月13日(日)
美しいものを美しいを感じられる気持ち、まだ持てていますか?
2008年4月15日(火) デザインフェスタvol.27
ブースナンバーが決まりました。
C-0736でございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
2008年4月16日(水) 忘却
記憶は、消えていくものだ。
ゆっくりと、確実に。
残されるのは、わずかないくつかの断片だけで、消えていくものはもう、どうしようもない。
それを責めることは、誰にもできない。
2008年4月19日(土) 消滅
誰も見ていないとしたら、月は本当にそこにあるか?
無数の可能性の集合体も、実現しなければ可能性のままではないか?
我々は宇宙の始まりの直後まで、方程式で想像することはできるけれども、それと、実在とは、本当に合致するのだろうか?
“数学的に真であることは、必ずしも実在を必要としない”
方程式は物事をうまく説明し、時にうまく予測することも可能だが、その説明可能性、予測可能性は必ずしも、実在を伴うわけではない。
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確証が得られなければ、その実在を信じ続けることは思いのほか、難しい。その信念が揺らいだとき、実在は泡のように、音をたててはじけて消滅する。
ぱちん。
2008年4月20日(日) 死を想う
年齢を重ねていくと、死がどんどん身近になっていく。それにつれて、自分自身の死も、想うようになってきた。自身の死がいつ訪れるかなど、分かろうはずもない。もしかしたら明日、逝ってしまうかもしれないし、40年、50年先のことかもしれない。ただ少なくとも、自分自身の生は限りのあるものであり、いつまでも続くものでは決してない。だからこそ、その限られた時間の中で、自身に何ができるのか、と考える。
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答えなど、そうそう見つかるものではない。
日々のいくつもの喜怒哀楽を受け止め、多くの生と死に向き合い、その中で安住できる場所を見つけた人は幸いだ。それを見つけた友人達には、心からの祝福を贈ろう。
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自分にそういう安住できる場所が見つけられるかどうか、不安になることもある。あるいは、旅の途上で倒れてしまうかもしれない。それは未来の可能性に属することで、今、それを確定的に語ることは、できない。
2008年4月22日(火) 夜明け前
昨日は異常に身体がだるくて、ちょっと制作の続きをやってから、10時前に早々に寝てしまった。あんまり早くに床に就いたものだから、3時頃に目が覚めて、しばらく布団の中でだらだらしてみた。
気を引き締めて溢れないようにしていた記憶が、ふと力が抜けた拍子にどっと溢れてきた。
記憶はそうそう消せやしないと、思い知る。
そんなこと、大学でさんざん研究してきたことなのに。
知ることと、身をもって感ずることは、違うものなのだ。
神の存在を知ることと、その存在を信仰することが、明らかに違うように。
2008年4月23日(水) 散り際
昨日、中庭で煙草を吸っていると、さっと風が吹いて桜が散りゆく様が見られた。桜の散り際は、本当に美しいと思うし、散るからこそ、その美しさがより際立つのだと、思う。
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永遠、ではないのだ。
花を咲かせ、風に散り、葉が芽吹いてやがて落ち、そして再び花を咲かせる。
そういう周期性がひとつの環をなして、ひとつの異なった永遠を成す。
その一つの環は、桜の種子が芽吹き、育ち、やがて老いて枯れゆく、より大きな環の中に組み込まれている。
その環は、その環そのものでは永遠のサイクルであるが、その環はより大きな環に組み込まれており、その大きな環の中では、自身の永遠性を失う。
人間が生まれて死ぬまでの間の、たかだか80年程度のタイムスパンでは、見える環と見えない環があろう。
それを何処まで見通せるのか、と考え、その考え自体にはさして意味がないことを知る。
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我々はある種の永遠に思える永遠ならざるものに組み込まれ、永遠であろう瞬間瞬間を生き、それを永遠ならざるものと転化して、生きているからだ。
2008年4月26日(土)
動き出せ。
たとえ周りに味方が一人もいなくなっても。
2008年4月29日(火)
伝えようとする努力もなしに「伝わらない」と嘆くのは、ちょっと違うと思う。